・・・どうも俺の脚の臭いは長靴の外にも発散するらしい。……「九月×日 馬の脚を自由に制御することは確かに馬術よりも困難である。俺は今日午休み前に急ぎの用を言いつけられたから、小走りに梯子段を走り下りた。誰でもこう言う瞬間には用のことしか思わぬ・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・嗅ぎ慣れた女の臭いが鼻を襲ったと仁右衛門は思った。「四つ足めが」 叫びと共に彼れは疎藪の中に飛びこんだ。とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない草鞋の底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・顔は皆蒼ざめて、真面目臭い。そして黒い上衣と光るシルクハットとのために、綺麗に髯を剃った、秘密らしい顔が、一寸廉立った落着を見せている。 やはり廉立ったおちつきを見せた頭附をして検事の後の三人目の所をフレンチは行く。 監獄の廊下は寂・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・が、……段の上からと、廊下からと、二ヶ処の電燈のせいか、その怪しい影を、やっぱり諸翼のごとく、両方の壁に映しながら、ふらりと来て、朦朧と映ったが、近づくと、こっちの息だか婦の肌の香だか、芬とにおって酒臭い。「酔ってますね、ほほほ。」・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・人間の自然性だの性欲の満足だのとあまり流行臭い思想で浅薄に解し去ってはいけない。 世に親というものがなくなったときに、われらを産んでわれらを育て、長年われらのために苦労してくれた親も、ついに死ぬ時がきて死んだ。われらはいま多くのわが子を・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・ 戦争の過ぎた跡へかけ付けて、なま臭い人肉を喰う狼見た様な犬がうろ付いとる間で、腰、膝の立たんわが身が一夜をその害からのがれたんは、まだ死をいそぐんではなかろて、勇気――これが僕にはほんまの勇気やろ――を出して後方にさがった。独立家屋のあた・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・が、根が昔の戯作者系統であったから、人生問題や社会問題を文人には無用な野暮臭い穿鑿と思っていた。露骨にいうと、こういうマジメな問題に興味を持つだけの根柢を持たなかった。が、不思議に新らしい傾向を直覚する明敏な頭を持っていて、魯文門下の「江東・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・一度打つたびに臭い煙が出て、胸が悪くなりそうなのを堪えて、そのくせそのを好きなででもあるように吸い込んだ。余り女が熱心なので、主人も吊り込まれて、熱心になって、女が六発打ってしまうと、直ぐに跡の六発の弾丸を込めて渡した。 夕方であったの・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・、自然に刎ね返って、延び上った姿、青い葉の裏に、青い円い体に銀光の斑点の付いている裸虫の止っているのも啼く虫と見えて、ぎょっとしたこと、其の時の小さな心臓の鼓動、かゝる空溝に生えている草叢にすら特有の臭い、其等は、今、こうやって机に向ってい・・・ 小川未明 「感覚の回生」
・・・窓は閉めて、空気の通う所といっては階子の上り口のみであるから、ランプの油煙や、人の匂や、変に生暖い悪臭い蒸れた気がムーッと来る。薄暗い二間には、襤褸布団に裹って十人近くも寝ているようだ。まだ睡つかぬ者は、頭を挙げて新入の私を訝しそうに眺めた・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫