上「こりゃどうも厄介だねえ。」 観音丸の船員は累々しき盲翁の手を執りて、艀より本船に扶乗する時、かくは呟きぬ。 この「厄介」とともに送られたる五七人の乗客を載了りて、観音丸は徐々として進行せ・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・酌に来た女は秋刀魚船の話をした。船員の腕にふさわしい逞しい健康そうな女だった。その一人は私に婬をすすめた。私はその金を払ったまま、港のありかをきいて外へ出てしまったのである。 私は近くの沖にゆっくり明滅している廻転燈台の火を眺めながら、・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・床屋さんは瘤の多いグル/\頭の、太い眉をした元船員の男だった。三年食っていると云った。出たくないかときくと、なアに長い欧州航路を上陸をせずに、そのまゝ二三度繰りかえしていると思えば何んでもない、と云って笑った。「アパアト住い」と云い、又・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・異国語の会話は、横浜の車夫、帝国ホテルの給仕人、船員、火夫に、――おい! 聞いて居るのか。はい、わたくし、急にあらたまるあなたの口調おかしくて、ふとんかぶってこらえてばかりいました。ああ、くるしい。家人のつつましい焔、清潔の満潮、さっと涼し・・・ 太宰治 「創生記」
・・・ この主婦の亡夫は南洋通いの帆船の船員であったそうで、アイボリー・ナッツと称する珍しい南洋産の木の実が天照皇大神の掛物のかかった床の間の置物に飾ってあった。この土地の船乗りの中には二、三百トンくらいの帆船に雑貨を積んで南洋へ貿易に出掛け・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・甲板の手すりにもたれて銃口をそろえた船員の群れがいる。「まだ打っちゃいけない。」映画監督のシュネイデロフが叫ぶ。銃砲より先にカメラの射撃が始まるのである。白熊は、自分の毛皮から放射する光線が遠方のカメラのレンズの中に集約されて感光フィルムの・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・第二中学の模様など聞いているうち船員が出帆旗を下ろしに来た。杣らしき男が艫へ大きな鋸や何かを置いたので窮屈だ。山々の草枯れの色は実に美しいと東の山ばかり見ているうちはや神島まで来て、久礼はと見たけれども何処とも見当がつかぬ。釣船が追々に沖か・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・上のボートデッキでボーイと女船員が舞踊をやっていた。十三夜ぐらいかと思う月光の下に、黙って音も立てず、フワリフワリと空中に浮いてでもいるように。四月四日 日曜で早朝楽隊が賛美歌を奏する。なんとなく気持ちがいい。十時に食堂でゴッテスデ・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・甲板をあちこちする船員の靴音がコツリ/\と言文一致なれば書く処なり。夢魂いつしか飛んで赴く処は鷹城のほとりなりけん、なつかしき人々の顔まざ/\と見ては驚く舷側の潮の音。ねがえりの耳に革鞄の仮枕いたずらに堅きも悲しく心細くわれながら浅猿しき事・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 私は未だ極道な青年だった。船員が極り切って着ている、続きの菜っ葉服が、矢っ張り私の唯一の衣類であった。 私は半月余り前、フランテンの欧洲航路を終えて帰った許りの所だった。船は、ドックに入っていた。 私は大分飲んでいた。時は・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
出典:青空文庫