・・・蜂はその時もう花粉にまみれながら、蕊の下にひそんでいる蜜へ嘴を落していた。 残酷な沈黙の数秒が過ぎた。 紅い庚申薔薇の花びらは、やがて蜜に酔った蜂の後へ、おもむろに雌蜘蛛の姿を吐いた。と思うと蜘蛛は猛然と、蜂の首もとへ跳りかかった。・・・ 芥川竜之介 「女」
・・・何だかその匂や褐色の花粉がべたべた皮膚にくっつきそうな気がした。 多加志はたった一晩のうちに、すっかり眼が窪んでいた。今朝妻が抱き起そうとすると、頭を仰向けに垂らしたまま、白い物を吐いたとか云うことだった。欠伸ばかりしているのもいけない・・・ 芥川竜之介 「子供の病気」
・・・それは日のよくあたる風の吹く、ほどよい湿度と温度が幸いする日、杉林が一斉に飛ばす花粉の煙であった。しかし今すでに受精を終わった杉林の上には褐色がかった落ちつきができていた。瓦斯体のような若芽に煙っていた欅や楢の緑にももう初夏らしい落ちつきが・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・その野は花の海で、花粉のためにさまざまな色にそまったおかあさんの白い裳のまわりで、花どもが細々とささやきかわしていました。蜂鳥や、蜂や、胡蝶が翅をあげて歌いながら、綾のような大きな金色の雲となって二人の前を走って歩きました。おかあさんは歩み・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・数千の火の玉小僧が列をなして畳屋の屋根のうえで舞い狂い、火の粉が松の花粉のように噴出してはひろがりひろがっては四方の空に遠く飛散した。ときたま黒煙が海坊主のようにのっそりあらわれ屋根全体をおおいかくした。降りしきる牡丹雪は焔にいろどられ、い・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・それで、虻が蜜汁をあさってしまって、後ろ向きにはい出そうとするときに、虻の尻がちょうどおしべの束の内向きに曲がった先端の彎曲部に引っかかり、従って存分に花粉をべたべたと押しつけられる。しかし弱い弾性しか持たぬおしべは虻の努力に押しのけられて・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・たとえば昔ある僧侶の学者が顕微鏡下で花粉をのぞいている間に注意して研究した微粒子の運動が、後日物質素量説の実証的根拠として一時盛んに研究されるようになった。またスイスの山間の中学校の先生が粗末な験電器の漏電を測っていたことが、少なくも間接に・・・ 寺田寅彦 「物理学圏外の物理的現象」
・・・稲の花粉だってやっぱり僕らが運ぶんだよ。それから僕が通ると草木はみんな丈夫になるよ。悪い空気も持って行っていい空気も運んで来る。東京の浅草のまるで濁った寒天のような空気をうまく太平洋の方へさらって行って日本アルプスのいい空気だって代りに持っ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
今日などはもう随分暖い。昨夜一晩のうちに机の上のチューリップがすっかり咲き切って、白い木蓮かなどのように見える花弁の上に、黄色い花粉を沢山こぼしている。太い雌芯の先に濃くその花粉がついて、自然の営みをしているが、剪られた花・・・ 宮本百合子 「塵埃、空、花」
・・・真実に自分を一個の社会人として自覚し、歴史のなかに自分一生の価値を見出そう、生きるに甲斐ある一生を送ろうと希う男女であるならば、どうして、わけもなく、とび散る花粉のような恋愛に自分をよごすだろう。衣服の色、モードに対してさえ趣味による選択の・・・ 宮本百合子 「貞操について」
出典:青空文庫