・・・ 然し其時分の志望は実に茫漠極まったもので、ただ英語英文に通達して、外国語でえらい文学上の述作をやって、西洋人を驚かせようという希望を抱いていた。所が愈大学へ這入って三年を過して居るうちに、段々其希望があやしくなって来て、卒業したときに・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・当なく、茫漠として「夢は枯野を馳けめぐる」けれど、一点 わが信仰は失せず身を献げた犠牲台のように朝に夕 只管清浄な煙を断やすまいとするのだ。 *ああ、われは献納の香炉。ささやかな火は絶えず・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・と、茫漠とした顔附になった。「どこにかあるだろうよ、おおかた……」 母親も忘れていたのだ。 もう出て来ることなんぞないだろう。 だが、自分の心の中に鮮かに、あのケシの花の表紙と桃色の切れっぱしの恰好がのこっている。 ・・・ 宮本百合子 「「処女作」より前の処女作」
・・・ 或る程度まで達するうちには、この無智な、狭小な魂の所有者である自分は、たくさんの苦痛と涙と、悔恨とに遭遇しなければならないのは、明かに予知されます。茫漠たる原野に、一粒ずつの金剛砂を求めて行くような労力と、収穫の著しい差異も、覚悟して・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・五つ位の娘であった私の茫漠とした記憶の裡に、暗くて睡い棧敷の桝からハッと目をさまして眺めた明るい舞台に、貞奴のオフェリアが白衣に裾まである桃色リボンの帯をして、髪を肩の上にみだし、花束を抱いて立っていた鮮やかな顔が、やきつけられたようにのこ・・・ 宮本百合子 「中條精一郎の「家信抄」まえがきおよび註」
・・・は感受性の鋭い、智的というより感覚的な作家であって、目撃した人間の微細な動作、声や目の感じなど鋭利にとらえているけれども、人間と人間との輪廓、人間と人間との間に生じている遠近法などの把握では、常に何か茫漠としている。そういう部分がゴーリキイ・・・ 宮本百合子 「長篇作家としてのマクシム・ゴーリキイ」
・・・何しろ十八や九の小娘が小説を書き出し中央公論に発表されたと云っても、謂わば芸術家としてそれはまだ海のものとも山のものともつかず、前途は茫漠としている。先生は、人生の練達者であられたから、恐らく様々な複雑困難な、日本の社会では特に女にとって面・・・ 宮本百合子 「坪内先生について」
・・・……茫漠として古寂びたノスタルジヤが昼の雨に甦って来るように感じた。 福済寺から受ける全印象は、この寺が、嘗て僧院として存在したというより、明人及長崎先覚者等の間に倶楽部のような役目をつとめていたらしいことだ。広大な方丈に坐って点滴の音・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫