私は奈良にT新夫婦を訪ねて、一週間ほど彼らと遊び暮した。五月初旬の奈良公園は、すてきなものであった。初めての私には、日本一とも世界一とも感歎したいくらいであった。彼らは公園の中の休み茶屋の離れの亭を借りて、ままごとのような理想的な新婚・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・それは溪の上にだるま茶屋があって、そこの女が客と夜更けて湯へやって来ることがありうべきことだったのである。そういうことがわかっていながらやはり変に気になるのである。男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。そ・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・門を出ずれば角なる茶屋の娘軒先に立ちてさびしげに暮れゆく空をながめいしが、われを見て微かに礼なしぬ、貴嬢はこの娘を憶えいたもうや。賤しきこの娘を。 二郎はすでに家にあらざりき、叔母はわれを引き止めてまたもや数々の言葉もて貴嬢を恨み、この・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・少女は旅人が立ち寄る小さき茶屋の娘なりき、年経てその家倒れ、家ありし辺りは草深き野と変わりぬ。されど路傍なる梅の老木のみはますます栄えて年々、花咲き、うまき実を結べば、道ゆく旅客らはちぎりて食い、その渇きし喉をうるおしけり。されどたれありて・・・ 国木田独歩 「詩想」
・・・高瀬が園内の茶屋に預けてある弓の道具を取りに行って来て学士に交際うというは彼としてはめずらしい位だ。「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」と仲間うちでは遅く始めた体操の教師が言った。「一年の御稽古でも、しばらく休んでいると・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・芝公園の方にある休茶屋が、ともかくも一時この人達の避難する場所にあてられた。その休茶屋には、以前お三輪のところに七年も奉公したことのあるお力が内儀さんとしていて、漸くのことでそこまで辿り着いた旧主人を迎えてくれた。こんな非常時の縁が、新七と・・・ 島崎藤村 「食堂」
甲州の御坂峠の頂上に、天下茶屋という、ささやかな茶店がある。私は、九月の十三日から、この茶店の二階を借りて少しずつ、まずしい仕事をすすめている。この茶店の人たちは、親切である。私は、当分、ここにいて、仕事にはげむつもりであ・・・ 太宰治 「富士に就いて」
・・・と君は、その日、上野公園の茶屋でさかんにウィスキイをあおりながら、「僕は、はじめから、あの人を好きだったのですよ。岡野金右衛門だの何だの、そんなつまらない策略からではなく、僕は、はじめから、あの人となら本当に結婚してもいいと思っていたのです・・・ 太宰治 「未帰還の友に」
・・・千ヶ滝から峰の茶屋への九十九折の坂道の両脇の崖を見ると、上から下まで全部が浅間から噴出した小粒な軽石の堆積であるが、上端から約一メートルくらい下に、薄い黒土の層があって、その中に樹の根や草の根の枯れ朽ちたのが散在している。事によると、昔のあ・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
・・・峰の茶屋のある峠の上空に近く、巨口を開いた雨竜のような形をしたひと流れのちぎれ雲が、のた打ちながらいつまでも同じ所を離れない。ここで気流が戦って渦を巻いているのであろう。 日によってはまた、浅間の頂からちょうど牡丹の花弁のような雲の花冠・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
出典:青空文庫