・・・「いや、とんでもない……波は荒れるし。」「おお。」「雨は降るし。」「ほう。」「やっと、お天気になったのが、仙台からこっちでね、いや、馬鹿々々しく、皈って来た途中ですよ。」 成程、馬鹿々々しい……旅客は、小県、凡杯――・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・谷間から丘にかけて一帯に耕地が固くなって荒れるがまゝにされている中に、その一隅の麦畑は青々と自分の出来ばえを誇っているようだった。 二 もう今日か明日のうちに腹から仔豚が出て来るかも知れんのだが、そういうやつを野ッ原・・・ 黒島伝治 「豚群」
・・・秋からは、その沿線附近一帯をも、あまり儲けにならない麦を蒔かずに、荒れるがまゝに放って置く者もあった。 冬の始めになった。又、巻尺と、赤と白のペンキ塗りのボンデンを持った測量の一組がやって来た。そして、望遠鏡のような測量機でのぞき、何か・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 新浴場の位置は略崖下の平地と定った。荒れるに任せた谷陰には椚林などの生い茂ったところもある。桜井先生は大尉を誘って、あちこちと見て廻った。今ある自分の書斎――その建物だけを、先生はこの鉱泉側に移そうという話を大尉にした。 対岸に見・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・「この辺でも海の荒れることがあるのかね」「それあありますとも。年に決まって一回か二回はね。そしてその時に、刳り取られたこの砂地が均されるのです」 海岸には、人の影が少しは見えた。「叔父さんは海は嫌いですか」「いや、そうで・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・家康公の母君の墓もあれば、何とやらいう名高い上人の墓もある……と小さい時私は年寄から幾度となく語り聞かされた……それらの名高い尊い墳墓も今は荒れるがままに荒れ果て、土塀の崩れた土から生えた灌木や芒の茂りまたは倒れた石の門に這いまつわる野蔦の・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・「そうさ、だいぶ、強くなった。夜のせいだろう」「御山が少し荒れておりますたい」「荒れると烈しく鳴るのかね」「ねえ。そうしてよながたくさんに降って参りますたい」「よなた何だい」「灰でござりまっす」 下女は障子をあけ・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 夜着の袖の中からお君の啜泣きの声が、外に荒れる風の音に交って淋しく部屋に満ちた。 昨日、栄蔵の買った紅バラは、お君の枕元の黒い鉢の中で、こごえた様に凋んでしまって居た。 夜になっても栄蔵の怒りが鎮まらなかった。 顔には・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・たとえば第二回のところではこの感情を中心的に扱っていて、一中に入ろうとした時、自分が私生子であるということを知ってたいへん苦しみ、うちへかえって嫌だ嫌だと気狂のように大荒れに荒れる、その絶望の心を書いている。そのきっかけは花村という少年が「・・・ 宮本百合子 「一九四六年の文壇」
・・・竹林の蔭をゆるやかな傾斜で蜒々と荒れるに任されていた甃廻廊の閑寂な印象。境内一帯に、簡素な雄勁な、同時に気品ある明るさというようなものが充満していた。建物と建物とを繋いだ直線の快適な落付きと、松葉の薫がいつとはなししみこんだような木地のまま・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫