・・・庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮は嗽いを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜の夢を思い出した。 それは彼女がたった一人、暗い藪だか林だかの中を歩き廻っている夢・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・ 私は荒涼とした思いをいだきながら、この水のじくじくした沼の岸にたたずんでひとりでツルゲーネフの森の旅を考えた。そうして枯草の間に竜胆の青い花が夢見顔に咲いているのを見た時に、しみじみあの I have nothing to do wi・・・ 芥川竜之介 「日光小品」
・・・その緑が縦にMの字の形をしてとぎれとぎれに山膚を縫ったのが、なんとなく荒涼とした思いを起させる。こんな山が屏風をめぐらしたようにつづいた上には浅黄繻子のように光った青空がある。青空には熱と光との暗影をもった、溶けそうな白い雲が銅をみがいたよ・・・ 芥川竜之介 「槍が岳に登った記」
・・・ 大濤のようなうねりを見せた収穫後の畑地は、広く遠く荒涼として拡がっていた。眼を遮るものは葉を落した防風林の細長い木立ちだけだった。ぎらぎらと瞬く無数の星は空の地を殊更ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 何処となく荒涼とした粗野な自由な感じ、それは生面の人を威脅するものではあるかも知れないけれども、住み慣れたものには捨て難い蠱惑だ。あすこに住まっていると自分というものがはっきりして来るかに思われる。艱難に対しての或る勇気が生れ出て来る・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・ 杖は※状算を乱して、満目転た荒涼たり。 いつも変らぬことながら、お通は追懐の涙を灌ぎ、花を手向けて香を燻じ、いますが如く斉眉きて一時余も物語りて、帰宅の道は暗うなりぬ。 急足に黒壁さして立戻る、十間ばかり間を置きて、背後よりぬ・・・ 泉鏡花 「妖僧記」
・・・一つ精密に言うと――何故不安が不安になって来るかというと、これからだんだん人が寝てしまって医者へ行ってもらうということもほんとうにできなくなるということや、そして母親も寝てしまってあとはただ自分一人が荒涼とした夜の時間のなかへ取り残されると・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 九 滅度 身延山の寒気は、佐渡の荒涼の生活で損われていた彼の健康をさらに傷つけた。特に執拗な下痢に悩まされた。「此の法門申し候事すでに二十九年なり。日々の論議、月々の難、両度の流罪に身疲れ、心いたみ候ひし故にや・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・ひとつの、ささやかな興奮のあとに来る、倦怠、荒涼、やりきれない思いである。兄妹五人、一ことでも、ものを言い出せば、すぐに殴り合いでもはじまりそうな、険悪な気まずさに、閉口し切った。 母は、ひとり離れて坐って、兄妹五人の、それぞれの性格の・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・今見る三島は荒涼として、全く他人の町でした。此処にはもう、佐吉さんも居ない。妹さんも居ない。江島さんも居ないだろう。佐吉さんの店に毎日集って居た若者達も、今は分別くさい顔になり、女房を怒鳴ったりなどして居るのだろう。どこを歩いても昔の香が無・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
出典:青空文庫