・・・しかし車の響、風の音、人の声、ラヂオ、飛行機、蓄音器、さまざまの物音に遮られて、滅多にわたくしの耳には達しない。 わたくしの家は崖の上に立っている。裏窓から西北の方に山王と氷川の森が見えるので、冬の中西北の富士おろしが吹きつづくと、崖の・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・というのに驚いて、あたりを見ると、右に灰色した大きな建物、左に『大菩薩峠』の幟を飜す活動小屋が立っていて、煌々と灯をかがやかす両側の商店から、ラヂオと蓄音機の歌が聞える。 商店の中で、シャツ、ヱプロンを吊した雑貨店、煎餅屋、おもちゃ屋、・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・この苗木のもとに立って、断髪洋装の女子と共に蓄音機の奏する出征の曲を聴いて感激を催す事は、鬢糸禅榻の歎をなすものの能くすべき所ではない。巴里には生きながら老作家をまつり込むアカデミイがある。江戸時代には死したる学者を葬る儒者捨場があった。大・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・洲崎大門前の終点に来るまで、電車の窓に映るものは電柱につけた電燈ばかりなので、車から降りると、町の燈火のあかるさと蓄音機のさわがしさは驚くばかりである。ふと見れば、枯蘆の中の小家から現れた女は、やはり早足にわたくしの先へ立って歩きながら、傍・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・入場料は拾円で、蓄音機にしかけた口上が立止る人々の好奇心を挑発させていた。しかし入口からぽつぽつ出て来る人たちの評判を立聞きすると、「腰巻なんぞ締めていやがる。面白くもねえ。」というのである。小屋掛の様子からどうしてもむかし縁日に出たロクロ・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・というので、その景色のいいまわりにアカシヤを植え込んだ広い地面が、切符売場や信号所の建物のついたまま、わたくしどもの役所の方へまわって来たものですから、わたくしはすぐ宿直という名前で月賦で買った小さな蓄音器と二十枚ばかりのレコードをもって、・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・の香水を常用しているという部分の人々にはどういう感じをおこさせるかしらないが、都会の人口の大多数を占める下級中級の若いサラリーマン、勤労青年たちが、いささかの慰みとしてアパートの部屋でかけて聴いている蓄音器、レコードその他の楽器に新しく税が・・・ 宮本百合子 「カメラの焦点」
・・・ニッケルの大きい朝顔のラッパがついた蓄音器も木箱から出て来た。柿の白い花が雨の中に浮いていたことを覚えているから、多分その翌年の初夏ごろのことであったろう。父は裏庭に向った下見窓の板じきのところに蓄音器をおいて、よくひとりでそれをかけては聴・・・ 宮本百合子 「きのうときょう」
・・・祖母が、蓄音器を聴こうというのは、よい徴候だ、大丈夫だと、私は嬉しく思ったのであった。 翌日、祖母は鉢の木や隅田川など、満足した顔付で聴いた。傍で、把手を廻しながら彼女の楽しむ様子を眺め、私はレコードを買って来てよいことをしたと思った。・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
一、私が生れて始めて蓄音器と云うものを見聞いたのは、もう十四五年前、父が英国から土産に買って来たものでした。大きな銀色の朝顔型のラッパ、耳を澄ますと、スースー、スースーと云う針の音。小さい弟達と三人で、熱心にラッパを見つめ、・・・ 宮本百合子 「初めて蓄音器を聞いた時とすきなレコオド」
出典:青空文庫