・・・ ……電燈を消した二階の寝室には、かすかな香水のにおいのする薄暗がりが拡がっている。ただ窓掛けを引かない窓だけが、ぼんやり明るんで見えるのは、月が出ているからに違いない。現にその光を浴びた房子は、独り窓の側に佇みながら、眼の下の松林を眺・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・僕はこう言う薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘うように一心に箱車を押しつづけて行った。……… 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・その内にもう二人は、約束の石河岸の前へ来かかりましたが、お敏は薄暗がりにつくばっている御影の狛犬へ眼をやると、ほっと安心したような吐息をついて、その下をだらだらと川の方へ下りて行くと、根府川石が何本も、船から挙げたまま寝かしてある――そこま・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 薄暗がりに頷いたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、「じゃ、そうしましょう/\。お前さん、何にもありませんよ。」 勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固って入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・異様なる持主は、その鼻を真俯向けに、長やかなる顔を薄暗がりの中に据え、一道の臭気を放って、いつか土間に立ってかの杖で土をことことと鳴していた。「あれ。」打てば響くがごとくお米が身内はわなないた。 堪りかねて婆さんは、鼻に向って屹と居・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
去年の十月だったか、十一月だったか、それさえどうしても思い出せない程にぼんやりした薄暗がりの記憶の中から、やっと手捜りに拾い出した、きれぎれの印象を書くのであるから、これを事実と云えば、ある意味では、やはり一種の事実である・・・ 寺田寅彦 「議会の印象」
・・・裂目を洩れて斜めに大理石の階段を横切りたる日の光は、一度に消えて、薄暗がりの中に戸帳の模様のみ際立ちて見える。左右に開く廻廊には円柱の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。「北の方なる試合に・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 余と安倍君とは先生に導びかれて、敷物も何も足に触れない素裸のままの高い階子段を薄暗がりにがたがた云わせながら上って、階上の右手にある書斎に入った。そうして先生の今まで腰をおろして窓から頭だけを出していた一番光に近い椅子に余は坐った。そ・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・る徳蔵おじの手をしっかり握りながら、テカテカする梯子段を登り、長いお廊下を通って、漸く奥様のお寝間へ行着ましたが、どこからともなく、ホンノリと来る香は薫り床しく、わざと細めてある行燈の火影幽かに、室は薄暗がりでしたが、炉に焚く火が、僅か燃残・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫