・・・さてはまた長雨の晴れた昼すぎにきく竿竹売や、蝙蝠傘つくろい直しの声。それらはいずれもわたくしが学生のころ東京の山の手の町で聞き馴れ、そしていつか年と共に忘れ果てた懐しい巷の声である。 夏から秋へかけての日盛に、千葉県道に面した商い舗では・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・千金丹を売るものが必手に革包を提げ蝙蝠傘をひらいて歩いたのは明治初年の遺風であろう。日露戦争の後から大正四五年の頃まで市中到処に軍人風の装をなし手風琴を引きならして薬を売り歩くものがあった。浅井忠の板下を描いた当世風俗五十番歌合というものに・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・雪が飛んで頭の上が斑になるから、僕が蝙蝠傘をさし懸けてやった」「それは感心だ、君にも似合わない優しい事をしたものだ」「だって気の毒で見ていられないもの」「そうだろう」と余はまた法眼元信の馬を見る。自分ながらこの時は相手の寒い顔が・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 林が尽きて、青い原を半丁と行かぬ所に、大入道の圭さんが空を仰いで立っている。蝙蝠傘は畳んだまま、帽子さえ、被らずに毬栗頭をぬっくと草から上へ突き出して地形を見廻している様子だ。「おうい。少し待ってくれ」「おうい。荒れて来たぞ。・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・母ジェニファーの新しい愛人、そして良人として現われたコルベット卿をやっている俳優が、英国風の紳士というものを何か勘ちがいして、英国名物のチャンバーレン、蝙蝠傘は忘れずその手に持参しているばかり、到ってユーモアも男らしい複雑な味もなく一番つま・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・ 一八三〇年七月革命後、常に蝙蝠傘をもって漫画に描かれた優柔不断のルイ・フィリップがブルジョアジーの傀儡君主として王位についた時、一層凡庸化し、銭勘定に終始する俗人共の世界に反抗して、ユーゴー、ド・ミッセ、デュマ、メリメ、ジョルジュ・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
・・・得意の繭紬の蝙蝠傘も曾祖母はバテレンくさいと評した由。 北海道開発に志を遂げなかった政恒は、福島県の役人になってから、猪苗代湖に疏水事業をおこし、安積郡の一部の荒野を灌漑して水田耕作を可能にする計画を立て、地方の有志にも計ってそれを実行・・・ 宮本百合子 「明治のランプ」
・・・そこには弁当と蝙蝠傘とが置いてある。沓も磨いてある。 木村は傘をさして、てくてく出掛けた。停留場までの道は狭い町家続きで、通る時に主人の挨拶をする店は大抵極まっている。そこは気を附けて通るのである。近所には木村に好意を表していて、挨拶な・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・「蝙蝠傘張替修繕は好うがすの」と呼んで、前の往来を通るものがある。糸車のぶうんぶうんは相変らず根調をなしている。 石田はどこか出ようかと思ったが、空模様が変っているので、止める気になった。暫くして座敷へ這入って、南アフリカの大きい地・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・手にはウォランのついた、おもちゃのような蝙蝠傘を持っている。渡辺は無意識に微笑をよそおってソファから起きあがって、葉巻を灰皿に投げた。女は、附いて来て戸口に立ちどまっている給仕をちょっと見返って、その目を渡辺に移した。ブリュネットの女の、褐・・・ 森鴎外 「普請中」
出典:青空文庫