・・・ 鉄枴ヶ峰では分るまい……「身延山の石段で、行倒れになったようなんです。口も利けない始末ですがね、場所はどこです、どこにあります、あと何階あります、場所は、おさらいの会場は。」「おさらい……おさらいなんかありませんわ。」「え・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・……私は弱い身体の行倒れになった肉を、この人に拾われたいと存じます。画家 (あるいは頷奥さん、更めて、お縫さん。夫人 はアい。画家 貴女のそのお覚悟は、他にかえようはないのですか。夫人 はい、このまま、貴方、先生が手をひいて・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・多分行き倒れか転んで気絶をしたかした若い女の人を二人の巡査が左右から腕を抱えて連れてゆく。往来の人が立留って見ていた。自分はその足で散髪屋へ入った。散髪屋は釜を壊していた。自分が洗ってくれと言ったので石鹸で洗っておきながら濡れた手拭で拭くだ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・「それじゃア行き倒れだ!」と一人が言う。「たれか引き取り手がないものかナ。ぜんたい野郎はどこの者だ。」と一人が言う。「自分でも知るまい。」 実際文公は自分がどこで生まれたのか全く知らない、親も兄弟もあるのかないのかすら知らな・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・吹雪の夜に、わがやの門口に行倒れていた唇の赤い娘を助けて、きれいな上に、無口で働きものゆえ一緒に世帯を持って、そのうちにだんだんあたたかくなると共に、あのきれいなお嫁も痩せて元気がなくなり、玉のようなからだも、なんだかおとろえて、家の中が暗・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・狆に縮緬の着物を着せて、お附きの人間をつけて置く人が、彼の門前で死に瀕する行倒れを放って置くのは正しいことか。そういう人に媚びて、ほんとの同情をごまかしたり、知らない振りをするのは正しいことか。優しい鼓舞と助力は待ち望まれて・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 若し、貴女が真個に良人を愛し、その愛の為に自己を貫き度いと云うのなら、どこまで遣れるか、遣れる処まで突き進んで見たらよいではありませんか、たといその為に行倒れになったとしても本望でしょうと云う、言葉は燃え、壮んです。 けれども、そ・・・ 宮本百合子 「ひしがれた女性と語る」
・・・そして京都の辻には行倒れが絶えず、女乞食が宮廷の庭へまで入って来るような極端な貧しさの中で文盲であった。紫式部達が物語を書き、支那の詩を扇にかいてさざめいていた時、これらの謙遜であるとも知らぬほど謙遜で勤勉な庶民の女達は、自分の名も知らず、・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫