・・・ 旧暦のお正月の頃で、港町の雪道は、何か浮き浮きした人の往き来で賑わっていた。曇っていた日であったが、割にあたたかで、雪道からほやほや湯気が立ち昇っている。 すぐ右手に海が見える。冬の日本海は、どす黒く、どたりどたりと野暮ったく身悶・・・ 太宰治 「母」
・・・そんな事があってから、私たちは、いよいよ親しくなり、彼が武蔵野町に綺麗な家を建て、お母さんと一緒に住むようになってからも、私たちは時々、往き来しているのである。いまは私も、東中野のアパートを引き上げ、この三鷹町のはずれに小さい家を借りて住ん・・・ 太宰治 「リイズ」
・・・枯枝を拾いて砂に嗚呼忠臣など落書すれば行き来の人吾等を見る。半時間ほども両人無言にて美人も通りそうにもなし。ようよう立上がりて下流へ行く。河とは名ばかりの黄色き砂に水の気なくて、照りつく日のきらめく暑そうなり。川口に当りて海面鏡のごとく帆船・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・ 白城の城主狼のルーファスと夜鴉の城主とは二十年来の好みで家の子郎党の末に至るまで互に往き来せぬは稀な位打ち解けた間柄であった。確執の起ったのは去年の春の初からである。源因は私ならぬ政治上の紛議の果とも云い、あるは鷹狩の帰りに獲物争いの・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ それは、富士山の頂上を、ケシ飛んで行く雲の行き来であった。 麓の方、巷や、農村では、四十年来の暑さの中に、人々は死んだり、殺したり、殺されたりした。 空気はムンムンして、人々は天ぷらの油煙を吸い込んでいた。 一方には、一方・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・ 鼻たれの兄と呼ばるゝ夜寒かな ふと眼を開けば夜はいつしか障子の破れに明けて渋柿の一つ二つ残りたる梢に白雲の往き来する様など見え渡りて夜着の透間に冬も来にけんと思わる。起き出でて簀子の端に馬と顔突き合わせながら口そそぎ手あらいす・・・ 正岡子規 「旅の旅の旅」
・・・がゾクゾクと出て居るので段々彼方ちへ彼方へと行くと小川に松の木の橋がかかって居た、私が渡り終えてフット振向とそれは大蛇でノタノタと草をないで私とはあべこべの方へ這って行く、――私はびっくりして向う岸と行き来の道を絶たれた悲しさと自分のわたっ・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ その日一日八度から九度の間を行き来して居た宮部の熱は、夜になっても別にあがりもしなかった。 それでも病人の部屋のわきの竹縁に消毒液をといた金□(がならんであったり、氷の音がしたりすると、皆は、いやなものをさしつけられた様な気持にな・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
いつもの様に私は本を持って庭に出た。 書斎の前の木の茂みの深い間々を、静かに読みながら行き来すると、ピッタリと落つきを持って生えた苔の美くしい地面の何とも云えず好い一種の香いが、モタモタした気持をスッキリ澄せて行く。・・・ 宮本百合子 「後庭」
・・・ 自分が廊下を行き来するのを、ほかに見るもののない監房の男たちがじっと眺めているのだが、岨が大きな声で、「えらいところへ出ましたね、寒いゾ」と、坐ったまま首だけのばして云った。保護室を通りすがったら、「馬鹿にしてるね!」・・・ 宮本百合子 「刻々」
出典:青空文庫