・・・肩から袖口にかけての折目がきちんと立っているま新しい久留米絣の袷を着ていたのである。たしかに青年に見えた。あとで知ったが、四十二歳だという。僕より十も年うえである。そう言えば、あの男の口のまわりや眼のしたに、たるんだ皺がたくさんあって、青年・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・老い疲れたる帝国大学生、袖口ぼろぼろ、蚊の脛ほどに細長きズボン、鼠いろのスプリングを羽織って、不思議や、若き日のボオドレエルの肖像と瓜二つ。破帽をあみだにかぶり直して歌舞伎座、一幕見席の入口に吸いこまれた。 舞台では菊五郎の権八が、した・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・ワイシャツの袖口が清潔なのに、感心いたしました。私が、紅茶の皿を持ち上げた時、意地悪くからだが震えて、スプーンが皿の上でかちゃかちゃ鳴って、ひどく困りました。家へ帰ってから、母は、あなたの悪口を、一そう強く言っていました。あなたが煙草ばかり・・・ 太宰治 「きりぎりす」
・・・結構どころか、奇態であった。袖口からは腕が五寸も、はみ出している。ズボンは、やたらに太く、しかも短い。膝が、やっと隠れるくらいで、毛臑が無残に露出している。ゴルフパンツのようである。私は流石に苦笑した。「よせよ。」佐伯は、早速嘲笑した。・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・綿ネルの下着が袖口から二寸もはみ出しているのが、いつも先生から笑われる種であった。それから、自分が生来のわがまま者でたとえば引っ越しの時などでもちっとも手伝わなかったりするので、この点でもすっかり罰点をつけられていた。それからTは国のみやげ・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・お絹はそういうときの癖で、踊りの型のように、両手を袖口へ入れて組んでいたが、足取りにもどこかそういったやかさがあった。「ちょっと見てゆこうかね」道太は一度も入ったことのないその劇場が、どんな工合のものかと思って、入口へ寄って、場席の手入・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・馭者が二人、馬丁が二人、袖口と襟とを赤地にした揃いの白服に、赤い総のついた陣笠のようなものを冠っていた姿は、その頃東京では欧米の公使が威風堂々と堀端を乗り歩く馬車と同じようなので、わたくしの一家は俄にえらいものになったような心持がした。・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るように前身をそらして、櫛の背を歯に銜え、両手を高く、長襦袢の袖口はこの時下へと滑ってその二の腕の奥に・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・その袖口からどうかすると脇の下まで見え透きそうになるのを、頻と気にして絶えず片手でメレンスの襦袢の袖口を押えている。車はゆるやかな坂道をば静かに心地よく馳せ下りて行く。突然足を踏まれた先刻の職人が鼾声をかき出す。誰れかが『報知新聞』の雑報を・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・この前四谷に行って露子の枕元で例の通り他愛もない話をしておった時、病人が袖口の綻びから綿が出懸っているのを気にして、よせと云うのを無理に蒲団の上へ起き直って縫ってくれた事をすぐ聯想する。あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変らなか・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫