・・・其葦の枯葉が池の中心に向つて次第に疎になつて、只枯蓮の襤褸のやうな葉、海綿のやうな房が碁布せられ、葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を添へてゐる。此の bitume 色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍い反射・・・ 永井荷風 「上野」
・・・この橋の上に杖を停めて見ると、亜鉛葺の汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から襤褸きれを翻しながら幾町となく立ちつづいている。その間に勾配の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかし・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・嫁しては主夫の襤褸を補綴する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや。いたずらに虚飾の流行に誘われて世を誤るべきのみ。もとより農民の婦女子、貧家の女子中、稀に有為の俊才を生じ、偶然にも大に社会を益したることなきにあらざれども、こは千百・・・ 福沢諭吉 「文明教育論」
・・・ 襤褸商人の家の二階の格子窓の前の屋根の上に反古籠が置いてあって、それが格子窓にくくりつけてある。何のためか分らぬ。 はや鯉や吹抜を立てて居る内がある。五色の吹抜がへんぽんとひるがえって居るのはいさましい。 横町を見るとここにも・・・ 正岡子規 「車上の春光」
・・・道ばたへ、襤褸みたいにぶっ倒れてるのも見た。革命前までロシアの労働者の飲みようと来たら底なしで、寒ぢゅう襯衣まで飲んで凍え死ぬもんがよくあった。立ち上ることを恐れた。そこで酒で麻痺させたんだ。おまけにツァーはそのウォツカの税でうんと儲けて居・・・ 宮本百合子 「正月とソヴェト勤労婦人」
・・・ 裏から紙を貼ってある一枚の十円札、まだ新しいもう一枚の十円と五円とは、黒っぽい襤褸にくるまって今もやはりあの古綿の奥に入っているものと、彼は思っていたのである。 そして、独り遺った息子の六に、唯一の頼りを感じて暮して行くはずだった・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・ 休日毎に朝早くゴーリキイは袋をもって家々の中庭や通りを歩き、牛骨、襤褸、古釘などを拾いあつめた。襤褸と紙屑とは一プード二十哥。骨は一プード十哥か八哥で屑屋が買った。彼はふだんの日はこの仕事を学校がひけてからやった。 屑拾いよりもっ・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・その亀蔵が今年正月二十一日に、襤褸を身に纏って深野屋へ尋ねて来た。佐兵衛は「お前のような不孝者を、親父様に知らせずに留めて置く事は出来ぬ」と云った。亀蔵はすごすご深野屋の店を立ち去ったが、それを見たものが、「あれは紀州の亀蔵と云う男で、なん・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・その真ん中に、襤褸を着た女がすわって、手に長い竿を持って、雀の来て啄むのを逐っている。女は何やら歌のような調子でつぶやく。 正道はなぜか知らず、この女に心が牽かれて、立ち止まってのぞいた。女の乱れた髪は塵に塗れている。顔を見れば盲である・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫