・・・しかし画架からはずして長押の上に立てかけて下から見上げるとまるで見違えるような変な顔になっているのでびっくりする。どうかすると片方の小鼻が途方もなくたれ下がっているのを手近で見る時には少しも気づかなかったりする。 不思議な事にはこのよう・・・ 寺田寅彦 「自画像」
・・・つい数日前までは低く見えていた北極星が、いつのまにか、もう見上げるように高くなっていた。 スエズで買ったそろいのトルコ帽をかぶったジェルサレム行きの一行十人ばかり、シェンケの側の甲板で卓を囲んで、あす上陸する前祝いででもあるかビールを飲・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・あの女たちはわれわれが涙に暮れているのを見ればこそ、面と向ってわれわれの顔を見上げる勇気があるのだ。われわれはあの女たちを哀れと思う時にのみ、彼女たちを了解し得るのだ。」といっている。近松の心中物を見ても分るではないか。傾城の誠が金で面を張・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 自分は左右の窓一面に輝くすさまじい日の光、物干台に飜る浴衣の白さの間に、寝転んで下から見上げると、いかにも高くいかにも能く澄んだ真夏の真昼の青空の色をも、今だに忘れず記憶している…… これもやはりそういう真夏の日盛り、自分は倉・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・と羽団扇を棄ててこれも椽側へ這い出す。見上げる軒端を斜めに黒い雨が顔にあたる。脚気を気にする男は、指を立てて坤の方をさして「あちらだ」と云う。鉄牛寺の本堂の上あたりでククー、ククー。「一声でほととぎすだと覚る。二声で好い声だと思うた」と・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ランスロットは兜の廂の下より耀く眼を放って、シャロットの高き台を見上げる。爛々たる騎士の眼と、針を束ねたる如き女の鋭どき眼とは鏡の裡にてはたと出合った。この時シャロットの女は再び「サー・ランスロット」と叫んで、忽ち窓の傍に馳け寄って蒼き顔を・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・もう白い髪をした指導者が一人一人の側によって仕事ぶりを親切に眺めていたがやがて壁にかかっている時計を見上げると、「さア子供達、腰かけた!」と響のよい年よりの声で云った。生徒たちは仕事机の下にバネじかけでしまってある腰かけを引き出し、・・・ 宮本百合子 「明るい工場」
・・・ そんなことを話し合って監房の金網から左手の欄間を見上げると、欅は若葉で底光る梅雨空に重く、緑色を垂らしている。―― ズーッと入って行って横顔を見、自分はおやと目を瞠った。いつかの地下鉄の娘さんの父親がやって来ている。「そう・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・明日からまたこうして頼りもない日を迎えねばならぬ――しかし、ふと、どうしてこんなとき人は空を見上げるものだろうか、と梶は思った。それは生理的に実に自然に空を見上げているのだった。円い、何もない、ふかぶかとした空を。―― 高田の来た日・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ たとえば私がカサカサした枯れ芝生の上に仰臥して光明遍照の蒼空を見上げる。その蒼い、極度に新鮮な光と色との内に無限と永遠が現われている。そうしてあたかもその永遠の内から湧きいでたように、あたかも光がそれを生んだように、私の頭の上には咲き・・・ 和辻哲郎 「「自然」を深めよ」
出典:青空文庫