・・・如何にも其様な悪びれた小汚い物を暫時にせよ被ていたのが癇に触るので、其物に感謝の代りに怒喝を加えて抛棄てて気を宜くしたのであろう。もっとも初から捨てさせるつもりで何処ぞで呉れ、捨てるつもりで被て来たには相違無いわびしいものであった。 少・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・床の間の、見事な石の置き物は、富士山の形であって、人は、ただ遠くから讃歎の声を掛けてくださるだけで、どうやら、これは、たべるものでも、触るものでもないようでございます。富士山の置き物は、ひとり、どんなに寒くて苦しいか、誰もごぞんじないのです・・・ 太宰治 「古典風」
・・・かえって私のほうが、腫物にでも触るような、冷や冷やした気持で聞いてみた。「そうです。そうです。」すこし尖った口調で答えて、二度も三度も首肯した。「家が建つのだそうですね。いつごろ建つの?」「もう、間も無く建ちますよ。立派な、お屋・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・暑中休暇がすんであたふたと上京したら、馬場の海賊熱はいよいよあがっていて、やがて私にもそのまま感染し、ふたり寄ると触ると Le Pirate についての、はなやかな空想を、いやいや、具体的なプランについて語り合ったのである。春と夏と秋と冬と・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・柔かい着物が触る。えならぬ香水のかおりがする。温かい肉の触感が言うに言われぬ思いをそそる。ことに、女の髪の匂いというものは、一種のはげしい望みを男に起こさせるもので、それがなんとも名状せられぬ愉快をかれに与えるのであった。 市谷、牛込、・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・しかし私はなんだか自分などの手に触るべからざる贅沢なものに触れたような気がしたので、急いでもとの棚へ返した。 その下の棚に青い釉薬のかかった、極めて粗製らしい壷が二つ三つ塵に埋れてころがっているのを拾い上げて見た。実に粗末なものではある・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・ただ徒らに冗漫の辞を羅列して問題の要旨に触るるを得ざるは深く自ら慚ずる所なり。これに依って先覚諸氏の示教に接する機を得ば実に望外の幸いなり。 一 ある自然現象の科学的予報と云えば、その現象を限定すべき原因条件・・・ 寺田寅彦 「自然現象の予報」
・・・そこで腰に鉄鍋を当てて待構えていて、腰に触る怪物の手首をつかまえてぎゅうぎゅう捻じ上げたが、いくら捻じっても捻じっても際限なく捻じられるのであった。その時刻にそこから十町も下流の河口を船で通りかかった人が、何かしら水面でぼちゃぼちゃ音がして・・・ 寺田寅彦 「重兵衛さんの一家」
・・・指の尖で触ると、ぬらりとあやしい字が出来る。「こう湿気てはたまらん」と眉をひそめる。女も「じめじめする事」と片手に袂の先を握って見て、「香でも焚きましょか」と立つ。夢の話しはまた延びる。 宣徳の香炉に紫檀の蓋があって、紫檀の蓋の真中には・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・全能の神が造れる無辺大の劇場、眼に入る無限、手に触るる無限、これもまた我が眉目を掠めて去らん。しかして余はついにそを見るを得ざらん。わが力を致せるや虚ならず、知らんと欲するや切なり。しかもわが知識はただかくのごとく微なり」と叫んだのもこの庭・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫