・・・トンミイ、フレンチ君が、糊の附いた襟が指に障るので顫えながら、嵌まりにくいシャツの扣鈕を嵌めていると、あっちの方から、鈍い心配気な人声と、ちゃらちゃらという食器の触れ合う音とが聞える。「あなた、珈琲が出来ました。もう五時です。」こう云う・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・舷の触れ合う音、とも綱の張る音、睡たげな船の灯、すべてが暗く静かにそして内輪で、柔やかな感傷を誘った。どこかに捜して宿をとろうか、それとも今の女のところへ帰ってゆこうか、それはいずれにしても私の憎悪に充ちた荒々しい心はこの港の埠頭で尽きてい・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・そのためにレディとの交際が出来難く、触れ合う女性は喫茶ガールや、ダンサーや、すべて水稼業に近い雰囲気のものになるということは嘆くべきことだ。もっと男女選択のチャンスの広くなるような、美しい賢明な男女交際の機関をこしらえてやることは社会的義務・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・曲がりなりにでも自分の目で見て自分の足で踏んで、その見る景色、踏む大地と自分とが直接にぴったり触れ合う時にのみ感じ得られる鋭い感覚を味わわなければなんにもならないという人がある。こういう人はとかくに案内書や人の話を無視し、あるいはわざと避け・・・ 寺田寅彦 「案内者」
・・・たとえば刑務所と工場の仕事場では音楽に交じる金鎚の音が繰り返され、両方の食堂では食器の触れ合うような音の簡単な旋律が繰り返される。クライマックスの狂風の場面の物をかきむしるような伴奏もはなはだ特異なもので画面の効果を十二分に強調する効果があ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・みんなの声や、鉄の材料の触れ合う音は、下から風の吹き上げるときは、手にとるように聞こえました。ペンネン技師からはひっきりなしに、向こうの仕事の進み具合も知らせてよこし、ガスの圧力や山の形の変わりようも尋ねて来ました。それから三日の間は、はげ・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・何処かの戸が開いているのか、或は故意と閉めずにあるのか、実際彼の耳には、時々瀬戸物の触れ合う音に混って彼女の声が聴えて来た。 其晩迄、彼は若い妻の声に特殊な注意を牽かれたことはなかった。其那に朗らかとも美麗とも思ったことはなかったのだが・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ 二人は槍の穂先と穂先とが触れ合うほどに相対した。「や、又七郎か」と、弥五兵衛が声をかけた。「おう。かねての広言がある。おぬしが槍の手並みを見に来た」「ようわせた。さあ」 二人は一歩しざって槍を交えた。しばらく戦ったが、槍術・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫