・・・それに私も加わり、暫く、黙って酒を飲んで居ると、表はぞろぞろ人の行列の足音、花火が上り、物売りの声、たまりかねたか江島さんは立ち上り、行こう、狩野川へ行こうよ、と言い出し、私達の返事も待たずに店から出てしまいました。三人が、町の裏通りばかり・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・そうして人類文化の進歩の急速な足音を聞いているような気もする。「ザンバ」のごとき自然描写を主題にしたものでも、おそらく映画製作者の意識には上らなかったような些事で、かえって最も強くわれわれの心を引くものが少なくない。たとえば獅子やジラフ・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中の空想から消去って、夜晩く行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹をゆする響に、伝通院の鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の下に、私は母と乳母とを相手に、暖い炬燵にあ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・夜はよく足音を聞きつけて吠えた。昼間でも彼の目には胡乱なものは屹度吠えられた。次の秋のマチが来た。太十は例の如く瞽女の同勢を連れ込んだ。赤は異様な一群を見て忽ちに吠え迫った。瞽女は滑稽な程慌てた。太十は何ということはなく笑った。そうして赤を・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・かの足音の戸の近くしばらくとまる時、垂れたる幕を二つに裂いて、髪多く丈高き一人の男があらわれた。モードレッドである。 モードレッドは会釈もなく室の正面までつかつかと進んで、王の立てる壇の下にとどまる。続いて入るはアグラヴェン、逞ましき腕・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 部屋へ入ると、深谷はワザと足音を高くして、電燈のスイッチをひねった。それから寝台へもぐり込む前に電燈を消した。 安岡は研ぎ出された白刃のような神経で、深谷が何か正体をつかむことはできないが、凄惨な空気をまとって帰ったことを感じた。・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 店梯子を駈け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・深い雪を踏む、静かなさぐり足が、足音は立てない。破れた靴の綻びからは、雪が染み込む。 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・戸の内で囁く声と足音とがして、しばらくしてから戸が開いた。出て来たのは三十歳ばかりの下女で、人を馬鹿にしたような顔をして客を見ている。「ジネストの奥さんはおいでかね。」 下女は黙って客間の口を指さした。オオビュルナンはそこへ這入った・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・あの子が夜遊に出て帰らぬ時は、わたしは何時もここに立って真黒な外を眺めて、もうあの子の足音がしそうなものじゃと耳を澄まして聞いていて、二時が打ち三時が打ち、とうとう夜の明けた事も度々ある。それをあの子は知らなんだ。昼間も大抵一人でいた。盆栽・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫