・・・―― 私の眼はだんだん雲との距離を絶して、そう言った感情のなかへ巻き込まれていった。そのとき私はふとある不思議な現象に眼をとめたのである。それは雲の湧いて出るところが、影になった杉山のすぐ上からではなく、そこからかなりの距りを持ったとこ・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・ 崖に面した窓の近くには手にとどく程の距離にかなひでという木があります。朴の一種だそうです。この花も五月闇のなかにふさわなくはないものだと思いました。然しなんと云っても堪らないのは梅雨期です。雨が続くと私の部屋には湿気が充満します。窓ぎ・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 豊吉はわれ知らずその後について、じっと少年の後ろ影を見ながらゆく、その距離は数十歩である、実は三十年の歳月であった。豊吉は昔のわれを目の前にありありと見た。 少年と犬との影が突然消えたと思うと、その曲がり角のすぐ上の古木、昔のまま・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・彼らと橇の距離はもう六七間になった。一人が馭者台で鞭を持ち、二人が、その後に坐っていた。馬は二頭だ。橇はちょっと止ったように見えた。と、馭者台から舌打ちがして、馬はくるりと反対にまわってしまった。鞭が、はげしく馬の尻をしばく音がした。「・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・ 刑務所との距離が縮まって行く。俺だちは途中色んな冗談を云い合ったものだ。然し二人ともだん/\黙り込んできた。「街を見たし……又、坐ってるさ……。」 俺はそれだけをポツンと云った。そして、それっ切り黙ってしまった。 今はモウ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・おげんの住慣れた町とは四里ほどの距離にあった。彼女が家を出る時の昂奮はその道のりを汽車で乗って来るまで続いていたし、この医院に着いてもまだ続いていた。しかし日頃信頼する医者の許に一夜を送って、桑畠に続いた病室の庭の見える雨戸の間から、朝靄の・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・真の尊敬というものは、お互いの近親感を消滅させて、遠い距離を置いて淋しく眺め合う事なのでしょうか。私は今は、生れてはじめて孤独です。「出エジプト記」を読むと、モーゼの努力の程が思いやられて、胸が一ぱいになります。神聖な民族でありながらも・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ 人形の顔とその動作の強調の必要は、一つにはまた観客と人形との距離からも起こってくる。これと反対の場合は映画における大写し、いわゆるクローズアップの場合である。この技術によって観客の目は対象物の直前に肉薄する。従って顔の小じわの一つ一つ・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・れだけ慰められ、得をしたかしれなかったが――もちろん私もそういう趣味はないことはないので、それらの宝蔵を瞥見しただけでも、多少のありがた味を感じないわけにはいかなかったが、それも今の私の気分とはだいぶ距離のあるものであった。ただ宇治川の流れ・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・しかもその大きな裂けめにおちこんで、しかもボルの学生たちとは、つまり土地で“五高の学生さん”というような身分的な距離があるのだった。――そしてそうやって、いらいらしていると、たいくつな、うすよごれた熊本市街の風景も、永くはみていられなかった・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫