・・・二階家はそのままで、辛うじて凌いだが、平屋はほとんど濁流の瀬に洗われた。 若い時から、諸所を漂泊った果に、その頃、やっと落着いて、川の裏小路に二階借した小僧の叔母にあたる年寄がある。 水の出盛った二時半頃、裏向の二階の肱掛窓を開けて・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・が、三十分ばかり、静としていて辛うじて起った。――もっともその折は同伴があって、力をつけ、介抱した。手を取って助けるのに、縋って這うばかりにして、辛うじて頂上へ辿ることが出来た。立処に、無熱池の水は、白き蓮華となって、水盤にふき溢れた。・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・国貞の画が雑と二百枚、辛うじてこの四冊の、しかも古本と代ったのである。 平吉はいきり出した。何んにも言うなで、一円出した。「織坊、母様の記念だ。お祖母さんと一緒に行って、今度はお前が、背負って来い。」「あい。」 とその四冊を・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・(ちょっと順序を附 宗吉は学資もなしに、無鉄砲に国を出て、行処のなさに、その頃、ある一団の、取留めのない不体裁なその日ぐらしの人たちの世話になって、辛うじて雨露を凌いでいた。 その人たちというのは、主に懶惰、放蕩のため、世に見棄・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・土間の皺が裂けるかと思う時、ひいても離れなかった名古屋の客の顔が、湯気を飛ばして、辛うじて上るとともに、ぴちぴちと魚のごとく、手足を刎ねて、どっと倒れた。両腋を抱いて、抱起した、その色は、火の皮の膨れた上に、爛が紫の皺を、波打って、動いたの・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・天居が去年の夏、複製して暑中見舞として知人に頒った椿岳の画短冊は劫火の中から辛うじて拾い出された椿岳蒐集の記念の片影であった。 が、椿岳の最も勝れた蒐集が烏有に帰したといっても遺作はマダ散在している。椿岳の傑作の多くは下町に所蔵されてい・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・って座ってる女が居る、鼠地の縞物のお召縮緬の着物の色合摸様まで歴々と見えるのだ、がしかし今時分、こんなところへ女の来る道理がないから、不思議に思ってよく見ようとするが、奇妙に、その紫色の帯の処までは、辛うじて見えるが、それから上は、見ようと・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・ 新聞広告代など財布を叩き破っても出るわけはなく、看板をあげるにもチラシを印刷するにもまったく金の出どころはない。万策つきて考え出したのが手刷りだ。 辛うじて木版と半紙を算段して、五十枚か百枚ずつ竹の皮でこすっては、チラシを手刷りし・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・その代り、葡萄糖やヴィタミン剤も欠かさず打って、辛うじてヒロポン濫用の悪影響を緩和している。 新吉は左の腕を消毒すると、針を突き刺そうとした。ところが一昨日から続けざまにいろんな注射をして来たので、到る所の皮下に注射液の固い層が出来て、・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・音楽家はそれらの人々の私腹を肥すことに努力することによって、辛うじて演奏にありついて来たのである。 ところが、相手はそんな庄之助を見て、あっけに取られてしまった。「さすが大阪の奴は、金のことにかけると汚いわい」 と、思ってみたり・・・ 織田作之助 「道なき道」
出典:青空文庫