・・・――泰さんは苦笑しながら、その蛇の目を受取ると、小僧は生意気に頭を掻いてから、とってつけたように御辞儀をして、勢いよく店の方へ駈けて行ってしまいました。そう云えば成程頭の上にはさっきよりも黒い夕立雲が、一面にむらむらと滲み渡って、その所々を・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・彼れは辞儀一つしなかった。 赤坊が縊り殺されそうに戸の外で泣き立てた。彼れはそれにも気を取られていた。 上框に腰をかけていたもう一人の男はやや暫らく彼れの顔を見つめていたが、浪花節語りのような妙に張りのある声で突然口を切った。「・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・クララの父母は僧正の言葉をフォルテブラッチョ家との縁談と取ったのだろう、笑みかまけながら挨拶の辞儀をした。 やがて百人の処女の喉から華々しい頌歌が起った。シオンの山の凱歌を千年の後に反響さすような熱と喜びのこもった女声高音が内陣から堂内・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 幸福と親御の処へなりまた伯父御叔母御の処へなり、帰るような気になったら、私に辞儀も挨拶もいらねえからさっさと帰りねえ、お前が知ってるという蓬薬橋は、広場を抜けると大きな松の木と柳の木が川ぶちにある、その間から斜向に向うに見えらあ、可い・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・と娘が、つい傍に、蓮池に向いて、という膝ぎりの帷子で、眼鏡の下に内職らしい網をすいている半白の父を呼ぶと、急いで眼鏡を外して、コツンと水牛の柄を畳んで、台に乗せて、それから向直って、丁寧に辞儀をして、「ええ、浦安様は、浦安かれとの、その・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ 顔も手も墨だらけな、八つと七つとの重蔵松三郎が重なりあってお辞儀をする。二人は起ちさまに同じように帽子をほうりつけて、「おばあさん、一銭おくれ」「おばあさん、おれにも」 二人は肩をおばあさんにこすりつけてせがむのである。・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・燦爛かなる扮装と見事なる髭とは、帳場より亭主を飛び出さして、恭しき辞儀の下より最も眺望に富みたるこの離座敷に通されぬ。三十前後の顔はそれよりも更けたるが、鋭き眼の中に言われぬ愛敬のあるを、客擦れたる婢の一人は見つけ出して口々に友の弄りものと・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・お富はしとやかに辞儀して去こうとした。「どうも色々有難う御座いました。お母上にも宜しく……それでは明日。」 二人は分れんとして暫時、立止った。「あア、明日お出になる時、お花を少し持て来て下さいませんか、何んでも宜いの。仏様にあげ・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・とぺこぺこお辞儀をする。そして顔を少しあからめた様子はよほど狼狽したらしい、やっぱり六十余りの老人である。「まアお掛けなさい。そしてその後はどうしました。」「イヤもうお話にも何にもなりません。」と、腰をおろしながら、「相変わらず・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・御辞宜を能くする卑劣の樹もある。這ッて歩いて十年たてば旅行いたし候と留守宅へ札を残すような行脚の樹もある。動物の中でもなまけた奴は樹に劣ッてる。樹男という野暮は即ちこれさ。元より羊は草にひとしく、海ほおずきは蛙と同じサ、動植物無区別論に極ッ・・・ 幸田露伴 「ねじくり博士」
出典:青空文庫