・・・今の法律を改めて旧套に返るべきや。平民の乗馬を禁ずべきや。次三男の自主独立をとどむべきや。 これを要するに、開進の今日に到着して、かえりみて封建世禄の古制に復せんとするは、喬木より幽谷に移るものにして、何等の力を用うるも、とうてい行わる・・・ 福沢諭吉 「徳育如何」
・・・疲れてもまた元に返る力の消長の中に暖かい幸福があるのだ。あれあれ、今黄金の珠がいざって遠い海の緑の波の中に沈んで行く。名残の光は遠方の樹々の上に瞬をしている。今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・『万葉』の「うれむぞこれが生返るべき」などいえるに比すれば句勢に霄壌の差あり。緇素月見樒つみ鷹すゑ道をかへゆけど見るは一つの野路の月影 この歌は『古今』よりも劣りたる調子なり。かくのごとき理屈の歌は「月を見る」と・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・ おきまりの場所になっている芝生の上に坐って、ぼんやりと、空に浮んだり消えたりする白い雲を眺めていた政子さんは、暫くすると誰かに肩を叩かれて、喫驚しながら振返ると、其処には思い掛けず、友子さんが立っています。「まあ友子さん」「あ・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・ 一人行く旅路の友と人形を抱くしおらしさよ。我妹、雪白の祭壇の上に潔く安置された柩の裡にあどけないすべての微笑も、涙も、喜びも、悲しみも皆納められたのであろうか。永久に? 返る事なく? 只一度の微笑みなり一滴の涙なりを只一度とのこされた・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 文学が広汎な意味での生活の中からもたらされ、再び生活へ何ものかをもたらして返るものであるからには、この関係の中からどんなにしても作家自身を消してしまうことは出来ない。十九世紀のフランスの文学者の或る人々は、当時の科学的研究の発展進歩に・・・ 宮本百合子 「人生の共感」
・・・返れと云うなら返る。」こう言い放って立ちしなに、下島は自分の前に据えてあった膳を蹴返した。「これは」と云って、伊織は傍にあった刀を取って立った。伊織の面色はこの時変っていた。 伊織と下島とが向き合って立って、二人が目と目を見合わせた・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・暗い狸穴の街路は静な登り坂になっていて、ひびき返る靴音だけ聞きつつ梶は、先日から驚かされた頂点は今夜だったと思った。そして、栖方の云うことを嘘として退けてしまうには、あまりに無力な自分を感じてさみしかった。いや、それより、自分の中から剥げ落・・・ 横光利一 「微笑」
・・・ 人類の運命はやっと常軌に返る。 その先駆としての露国革命はきわめて拙く行った。しかし、露国の革命には五十年の歳月が必要だと言われているくらいだから、今の無知無恥な混乱も露国としてはやむを得ないかもしれぬ。同じ革命がドイツや英国に起・・・ 和辻哲郎 「世界の変革と芸術」
・・・塵よりいでて塵に返る有限の人の身に光明に充つる霊を宿し、肉と霊との円満なる調和を見る時羽なき二足獣は、威厳ある「人」に進化する。肉は袋であり霊は珠玉である。袋が水に投げらるる時は珠もともに沈まねばならぬ。されど袋が土に汚れ岩に破らるるとも珠・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫