・・・「小母さんは何でこんなに遅いのでしょうね」と女の人は慰めるようにいう。あたりは見るうちに薄暗くなる。女の人がちょっと出て行って、今度帰って坐った時には、向き合いになってももう面輪が定かに見えない。 女の人は、立って押入から竹洋灯を取・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・と勇んで友人達に号令し、みな道端に寄って並び立ち、速力の遅いバスを待って居ました。やがてバスは駅前の広場に止り、ぞろぞろ人が降りて、と見ると佐吉さんが白浴衣着てすまして降りました。私は、唸るほどほっとしました。 佐吉さんが来たので、助か・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・思い出が皆片々で、電光のように早いかと思うと牛の喘歩のように遅い。間断なしに胸が騒ぐ。 重い、けだるい脚が一種の圧迫を受けて疼痛を感じてきたのは、かれみずからにもよくわかった。腓のところどころがずきずきと痛む。普通の疼痛ではなく、ちょう・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 紙の色は鈍い鼠色で、ちょうど子供等の手工に使う粘土のような色をしている。片側は滑かであるが、裏側はずいぶんざらざらして荒筵のような縞目が目立って見える。しかし日光に透かして見るとこれとはまた独立な、もっと細かく規則正しい簾のような縞目・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・ 電話が二度も演舞場からかかってきて、何やらの踊りの鼓を受け持つことになっている歌子の来ようが遅いので、一度は後と廻しにしたけれど、早く来てくれないと困るというのであった。「今使いを出しましたから、帰ってくるとすぐ上げます。お気の毒・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・此の bitume 色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍い反射を見せてゐる水の面を、十羽ばかりの雁が緩やかに往来してゐる。中には停止して動かぬのもある。」 此の景は池之端七軒町から茅町に到るあたりの汀から池を見たものであろう。作者は此の景・・・ 永井荷風 「上野」
・・・けれども、もう遅い。自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。しかし捕まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。いくら足を縮めても近づい・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・ この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。そいつあいけねえぜ。」一本腕が、口に一ぱい物を頬張りながら云った。 一言の返事もせずに、地び・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・ 五日の月が、西の山脈の上の黒い横雲から、もう一ぺん顔を出して、山に沈む前のほんのしばらくを、鈍い鉛のような光で、そこらをいっぱいにしました。冬がれの木や、つみ重ねられた黒い枕木はもちろんのこと、電信柱までみんな眠ってしまいました。・・・ 宮沢賢治 「シグナルとシグナレス」
・・・の偉大さをも感じないほど疲れた鈍い、哀れな感情になる事を思うのは、いかほど辛い事だろう。 どれほど、白髪が、私の頭を渦巻こうとも額にしわが数多く寄ろうとも、只、希うのは、健に、敏い感情のみを保ちたいと云う事である。 今私が、妹の死を・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
出典:青空文庫