・・・兎に角憎む時も愛する時も、何か酷薄に近い物が必江口の感情を火照らせている。鉄が焼けるのに黒熱と云う状態がある。見た所は黒いが、手を触れれば、忽その手を爛らせてしまう。江口の一本気の性格は、この黒熱した鉄だと云う気がする。繰返して云うが、決し・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・元来父はおとよを愛していたのだから、今でもおとよをかわいそうと思わないことはないけれど、ちょっと片意地に陥るとわが子も何もなくなる、それで通常は決して無情酷薄な父ではないのである。 おとよはだれの目にも判るほどやつれて、この幾日というも・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
なんにも書くな。なんにも読むな。なんにも思うな。ただ、生きて在れ! 太古のすがた、そのままの蒼空。みんなも、この蒼空にだまされぬがいい。これほど人間に酷薄なすがたがないのだ。おまえは、私に一箇の銅貨を・・・ 太宰治 「めくら草紙」
・・・のこっているものは、蒼空の如き太古のすがたとどめたる汚れなき愛情と、――それから、もっとも酷薄にして、もっとも気永なる復讐心。放心について 森羅万象の美に切りまくられ踏みつけられ、舌を焼いたり、胸を焦がしたり、男ひとり、よろ・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・人間らしい父と子の情愛の表現にさえ、彼等は生活のしきたりから殺伐な方法をとるしかなく、しかも、その殺伐さをとおして流露しようとする人間らしい父と子の心情を、彼等の支配者が利己と打算のために酷薄にふみにじる姿を描いている。けれども、当時の作者・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・ 極めて冷静な酷薄な調子で云った。「この社会には中流人だけあればいいんだよ」「中流人て、たとえばどういう人なんです?」 自分がきいた。「僕らの階級さ!」 自分がいる横のテーブルの上に「メーデー対策署長会議」と厚紙の表・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・その文明にある酷薄な偽善を観破し、終生つきまとった苦悩に足をふみ入れている。 女というものをも、トルストイはツルゲーネフの考えていたように、純情、献身、堅忍と勇気とに恵まれたもの、その気まぐれ、薄情、多情さえ男にとって美しい激情的な存在・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
出典:青空文庫