・・・習慣で自分はよく近くの野原を散歩する。新しい家の普請が到るところにあった。自分はその辺りに転っている鉋屑を見、そして自分があまり注意もせずに煙草の吸殻を捨てるのに気がつき、危いぞと思った。そんなことが頭に残っていたからであろう、近くに二度ほ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・へ南へ伸びて行こうとして十何年か前までは草深い田舎であった土地をどんどん住宅や学校、病院などの地帯にしてしまい、その間へはまた多くはそこの地元の百姓であった地主たちの建てた小さな長屋がたくさんできて、野原の名残りが年ごとにその影を消していき・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・路は野原の薄を分けてやや爪先上の処まで来ると、ちらと自分の眼に映ったのは草の間から現われている紙包。自分は駈け寄って拾いあげて見ると内に百円束が一個。自分は狼狽て懐中にねじこんだ。すると生徒が、「先生何に?」と寄って来て問うた。「何・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・あるいは麦畑の一端、野原のままで残り、尾花野菊が風に吹かれている。萱原の一端がしだいに高まって、そのはてが天ぎわをかぎっていて、そこへ爪先あがりに登ってみると、林の絶え間を国境に連なる秩父の諸嶺が黒く横たわッていて、あたかも地平線上を走って・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・二人はじぶんたちの馬が草を食べている野原をとおっていきました。そうすると女は、途中で、あんまり遠いから、私はよして家へかえりたいと言いました。ギンは、「だって今日ばかりは、どうしても二人でいかなければいけない。歩くのがいやなら、お前だけ・・・ 鈴木三重吉 「湖水の女」
・・・ 火災からひなんしたすべての人たちのうち、おそらく少くとも百二十万以上の人は、ようやくのことで、上にあげた、それぞれの広地や、郊外の野原なぞにたどりつき、飲むものも食べるものもなしに、一晩中、くらやみの地上におびえあつまっていたのです。・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・「海があんまり緑ですから、雲雀は野原だと思っているんでしょう」 とおかあさんは説き明かしました。 とたちまち霧は消えてしまって、空は紺青に澄みわたって、その中を雲雀がかけていました。遠い遠い所に木のしげった島が見えます。白砂の上・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。おそろしい情慾をさえ感じました。悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。枯野のコスモスに行き逢・・・ 太宰治 「ア、秋」
・・・ 私はいまでも、はっきり記憶しているが、私はその短篇集を読んで感慨に堪えず、その短篇集を懐にいれて、故郷の野原の沼のほとりに出て、うなだれて徘徊し、その短篇集の中の全部の作品を、はじめから一つ一つ、反すうしてみて、何か天の啓示のように、・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・この似つかぬことと広い野原とがなんとなくその胸を痛めた。一時とだえた追懐の情が流るるように漲ってきた。 母の顔、若い妻の顔、弟の顔、女の顔が走馬燈のごとく旋回する。欅の樹で囲まれた村の旧家、団欒せる平和な家庭、続いてその身が東京に修業に・・・ 田山花袋 「一兵卒」
出典:青空文庫