・・・いつも継母に叱られると言って、帰りをいそぐ娘もほっと息をついて、雪にぬらされた銀杏返の鬢を撫でたり、袂をしぼったりしている。わたくしはいよいよ前後の思慮なく、唯酔の廻って来るのを知るばかりである。二人の間に忽ち人情本の場面がそのまま演じ出さ・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・「どこへ行ったね」「ちょっと、町を歩行いて来た」「何か観るものがあるかい」「寺が一軒あった」「それから」「銀杏の樹が一本、門前にあった」「それから」「銀杏の樹から本堂まで、一丁半ばかり、石が敷き詰めてあった。・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・色の浅黒い眉毛の濃い大柄な女で、髪を銀杏返しに結って、黒繻子の半襟のかかった素袷で、立膝のまま、札の勘定をしている。札は十円札らしい。女は長い睫を伏せて薄い唇を結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。しかも札の数は・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・をさな子の寺なつかしむ銀杏かな「なつかしむ」という動詞を用いたる例ありや否や知らず。あるいは思う、「なつかし」という形容詞を転じて蕪村の創造したる動詞にはあらざるか。はたしてしかりとすれば蕪村は傍若無人の振舞いをなしたる者と謂うべし・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・ 二人は、停車場の前の、水晶細工のように見える銀杏の木に囲まれた、小さな広場に出ました。そこから幅の広いみちが、まっすぐに銀河の青光の中へ通っていました。 さきに降りた人たちは、もうどこへ行ったか一人も見えませんでした。二人がその白・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・境内宏く、古びた大銀杏の下で村童が銀杏をひろって遊んでいる。本堂の廊から三つの堂を眺めた風景、重そうな茅屋根が夕闇にぼやけ、大銀杏の梢にだけ夕日が燃ゆる金色に閃いているのは、なかなか印象的であった。いかにも関東の古寺らしく、大まかに寂び廃れ・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・ 二三年後お千代ちゃんに再び会った時、彼女は銀杏がえしに結った芸者であった。―― 稚かった自分に全然解らなかった生活の力が、お千代ちゃんを動かしていたことを理解し、由子は、高燥な夏の真昼の樟の香が鼻にしみるような心持になった。 ・・・ 宮本百合子 「毛の指環」
・・・同じ窓から銀杏並木のある歩道の一部が見下せた。どういう加減かあっちへ行く人ばかり四五人通ってしまったら、往来がとだえ電車も通らない。不意と紺ぽい背広に中折帽を少しななめにかぶった確りした男の姿が歩道の上に現れたと思うと、そのわきへスーと自動・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・ 馬琴は、何も、眇の小銀杏が、いくら自分を滅茶にけなしたからと云って、「鳶が鳴いたからと云って、天日の歩みが止るものではない」事は知って居るのである。よく分って居るのである。 けれども、けなされれば心持の悪いという事実は瞞着するに余・・・ 宮本百合子 「樹蔭雑記」
・・・葛と銀杏の小鉢が蹴り倒された。勘次は飛び起きた。そして、裏庭を突き切って墓場の方へ馳け出すと、秋三は胸を拡げてその後から追っ馳けた。二 本堂の若者達は二人の姿が見えなくなると、彼らの争いの原因について語合いながらまた乱れた配・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫