・・・「商売のできるくらいの金は、きっと持たして返すという話やったけれど、あっちの人はすす鋭いから結局旅のものが取られることになってしまう。私もあすこへ行ってから、これでもよほど人が悪くなった」お絹はそんなことを言っていた。 でもお芳の方・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・と父は鋭い叱の一声。然し、母上は懐の片手を抜いて、静に私の頭を撫で、「また、狐が出て来ました。宗ちゃんの大好きなを喰べてしまったんですって。恐いじゃありませんか。おとなしくなさい。」 雪は紛々として勝手口から吹き込む。人達の下駄の歯・・・ 永井荷風 「狐」
・・・自分はこの鋭い刃が、無念にも針の頭のように縮められて、九寸五分の先へ来てやむをえず尖ってるのを見て、たちまちぐさりとやりたくなった。身体の血が右の手首の方へ流れて来て、握っている束がにちゃにちゃする。唇が顫えた。 短刀を鞘へ収めて右脇へ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・運転手も火夫も、鋭い表情になって、機械に吸い込まれてしまった。 ――遊んでちゃ食えないんだ。だから働くんだ。働いて怪我をしても、働けなくなりゃ食えないんだ!―― 私は一つの重い計画を、行李の代りに背負って、折れた歯のように疼く足で、・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・見ますとね、先刻の何人でも呪いそうな彼の可怖い眼の方が、隣の列車の窓につかまって泣いてらッしゃるのでした、多くの人目も羞じないで。鋭い声の、あれが泣饒舌と云うのかも知れませんね。『兄さん、貴方は死んで呉れちゃいやですよ。決して死ぬんじゃ・・・ 広津柳浪 「昇降場」
・・・そしてひばりは鉄砲玉のように空へとびあがって鋭いみじかい歌をほんのちょっと歌ったのでした。 私は考えます。なぜひばりはうずのしゅげの銀毛の飛んで行った北の方へ飛ばなかったか、まっすぐに空の方へ飛んだか。 それはたしかに、二つのうずの・・・ 宮沢賢治 「おきなぐさ」
・・・つつましい、引しまった、鋭い精神の上に、徐々日の出のように方向が見え、自分の意企が輝いて来たら、嬉しさではしゃいではいけない。じっと心を守り、余分な精力と注意は一滴も他に浪費しないように、念を入れ心をあつめて、ペンならペン、絵筆なら絵筆を執・・・ 宮本百合子 「愛は神秘な修道場」
・・・心の中には、哀れな孝行娘の影も残らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も残らず、ただ氷のように冷ややかに、刃のように鋭い、いちの最後のことばの最後の一句が反響しているのである。元文ごろの徳川家の役人は、もとより「マルチリウム」という洋語も・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・紅の襞は鋭い線を一握の拳の中に集めながら、一揺れ毎に鐶を鳴らして辷り出した。彼は枕を攫んで投げつけた。彼はピラミッドを浮かべた寝台の彫刻へ広い額を擦りつけた。ナポレオンの汗はピラミッドの斜線の中へにじみ込んだ。緞帳は揺れ続けた。と彼は寝台の・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・この困難に打ち克った時には人はかなり鋭い心理家になっているだろう。今の私はなお自欺と自己弁護との痕跡を、十分消し去ることができない。自己弁護はともすれば浮誇にさえも流れる。それゆえ私は苦しむ。真実を愛するがゆえに私は苦しむ。六・・・ 和辻哲郎 「生きること作ること」
出典:青空文庫