・・・夢であったか現であったか、頭が錯乱しているので判然しない。 言うに言われぬ恐怖さが身内に漲ぎってどうしてもそのまま眠ることが出来ないので、思い切って起上がった。 次の八畳の間の間の襖は故意と一枚開けてあるが、豆洋燈の火はその入口まで・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・ちがうと首をふったが、その、冷く装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかっかっとほてらせた。そうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。 私はいま、あなたと智慧くらべをしようとしているので・・・ 太宰治 「川端康成へ」
・・・、おくれ毛を掻き上げ襟もとを直し腰を浮かせて私の話を半分も聞かぬうちに立って廊下に出て小走りに走って、玄関に行き、たちまち、泣くような笑うような笛の音に似た不思議な声を挙げてお客を迎え、それからはもう錯乱したひとみたいに眼つきをかえて、客間・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・あきらかに、錯乱、発狂の状態である。実にあわれなものである。おやじは、ひとり落ちつき、「きょうは、鯛の塩焼があるよ。」と呟く。 すかさず一青年は卓をたたいて、「ありがたい! 大好物。そいつあ、よかった。」内心は少しも、いい事はな・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・数枝いいひと、死んでも忘れない、働かなければ、あたし、死ぬる、なんにも言えない、鴎は、あれは、唖の鳥です、とやや錯乱に似た言葉を書き残して、八重田数枝のアパアトから姿を消した。淀橋の三木の家を訪れたのは、その日の夜、八時頃である。三木は不在・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・精神錯乱で自殺してしまったよ。『新俳句』に僕があの男を追懐して、思ひ出すは古白と申す春の人という句を作ったこともあったっけ。――その後早稲田の雇われ教師もやめてしまった。むろん僕が大学学生中の話だぜ。その間僕は下宿をしたり、・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・今から考えれば、その欲望は、作者が感情錯乱の中からそうとは自覚しないで求めた一つの客観性、客観的態度への転換の要求であったと思う。作者は一面では現実逃避して「古き小画」に没頭したのであったが、三ヵ月にあまるこの仕事への没頭――調べたり、ノー・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第二巻)」
・・・「なるほど、茶法の極意を和敬清寂と利休のいったのに対して、それを延して、人に見せるがためにあらず自己の心法を観ずる道場なりと変化さし得て今に至ったことは、ここに何事か錯乱を妨ぐ精神生活者の高い秘密がある」と直覚した久内に、全く賛同しているの・・・ 宮本百合子 「一九三四年度におけるブルジョア文学の動向」
・・・ドストイェフスキーの作品の悲劇的な分裂の世界は、ロシアの苦悩が正当なはけぐちとしての人民の革命的方向からはなれた結果の錯乱として、世界的な例を示している。 ヨーロッパ諸国からロシア風の情熱とよばれたロシアの十九世紀から二十世紀のはじめに・・・ 宮本百合子 「プロレタリア婦人作家と文化活動の問題」
・・・ 主人公クライドが、愛人である女工のロバアタの始末にこまって、ふとした新聞記事の殺人事件から暗示をうけ、その錯乱した心理の圧迫がロバアタを恐怖させその瞬間の二人の動物的なまた心理的な葛藤から、ついにロバアタが命をおとして、クライドは死刑・・・ 宮本百合子 「文学の大陸的性格について」
出典:青空文庫