・・・もう高粱の青んだ土には、かすかに陽炎が動いていた。「それもまた大成功さ。――」 中村少佐は話し続けた。「閣下は今夜も七時から、第×師団の余興掛に、寄席的な事をやらせるそうだぜ。」「寄席的? 落語でもやらせるのかね?」「何・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・僕等はいずれも腹這いになり、陽炎の立った砂浜を川越しに透かして眺めたりした。砂浜の上には青いものが一すじ、リボンほどの幅にゆらめいていた。それはどうしても海の色が陽炎に映っているらしかった。が、その外には砂浜にある船の影も何も見えなかった。・・・ 芥川竜之介 「蜃気楼」
・・・ その時打向うた卓子の上へ、女の童は、密と件の将棋盤を据えて、そのまま、陽炎の縺るるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折戸を開いた侍女は、二人とも立花の背後に、しとやかに手を膝に垂れて差控えた。 立花は言葉をかけようと思っ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ と、この一廓の、徽章とも言つべく、峰の簪にも似て、あたかも紅玉を鏤めて陽炎の箔を置いた状に真紅に咲静まったのは、一株の桃であった。 綺麗さも凄かった。すらすらと呼吸をする、その陽炎にものを言って、笑っているようである。 真赤な・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・いきなり、けらけらと笑ったのは大柄な女の、くずれた円髷の大年増、尻尾と下腹は何を巻いてかくしたか、縞小紋の糸が透いて、膝へ紅裏のにじんだ小袖を、ほとんど素膚に着たのが、馬ふんの燃える夜の陽炎、ふかふかと湯気の立つ、雁もどきと、蒟蒻の煮込のお・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ ――夜、その小屋を見ると、おなじような姿が、白い陽炎のごとく、杢若の鼻を取巻いているのであった。大正七年四月 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・ 橋の袂にも、蘆の上にも、随所に、米つき虫は陽炎のごとくに舞って、むらむらむらと下へ巻き下っては、トンと上って、むらむらとまた舞いさがる。 一筋の道は、湖の只中を霞の渡るように思われた。 汽車に乗って、がたがた来て、一泊幾干の浦・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ 松島の沿道の、雨晴れの雲を豆府に、陽炎を油揚に見物したという、外道俳人、小県の目にも、これを仰いだ目に疑いはない。薙刀の鋭き刃のように、たとえば片鎌の月のように、銀光を帯び、水紅の羅して、あま翔る鳥の翼を見よ。「大沼の方へ飛びまし・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・その油揚が陽炎を軒に立てて、豆府のような白い雲が蒼空に舞っていた。 おかしな思出はそれぐらいで、白河近くなるにつれて、東京から来がけには、同じ処で夜がふけて、やっぱりざんざ降だった、雨の停車場の出はずれに、薄ぼやけた、うどんの行燈。雨脚・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・ そして、暖かな日なので、陽炎が立っていました。 沖の方を見ますと、青い青い海が笑っていました。 砂山の下には、波打ちぎわに岩があって、波のまにまにぬれて、日に光っていました。 そして、翼の白い海鳥が飛んでいました。 笛・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
出典:青空文庫