・・・ 魚浅し、音暗しなどいえる警語を用いたるは漢詩より得たるものならん。従来の国文いまだこの種の工夫なし。陽炎や名も知らぬ虫の白き飛ぶ橋なくて日暮れんとする春の水罌粟の花まがきすべくもあらぬかなのごときは古文より・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・その厳しい冬が過ぎますと、まず楊の芽が温和しく光り、沙漠には砂糖水のような陽炎が徘徊いたしまする。杏やすももの白い花が咲き、次では木立も草地もまっ青になり、もはや玉髄の雲の峯が、四方の空を繞る頃となりました。 ちょうどそのころ沙車の町は・・・ 宮沢賢治 「雁の童子」
・・・ぬくめられる砂から陽炎と潮の香が重く立ちのぼった。 段々、陽子は自分の間借りの家でよりふき子のところで時間を潰すことが多くなった。風呂に入りに来たまま泊り、翌日夜になって、翻訳のしかけがある机の前に戻る。そんな日もあった。そこだけ椅子の・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 霜のない地面から長閑な陽炎が立つ。 雀が植え込みの椿の葉を揺るささやかな音。程なく私は縁側に出、両脚をぶら下げて腰をかけた。膝には赤い木皿に丸い小さいビスケットが三十入っている。 柱に頭をもたせかけ、私はくたびれてうっとりとし・・・ 宮本百合子 「雲母片」
・・・詩は波、揺らぐ日かげ理性は潜んで、静かにとける情操から陽炎のように思いが きで燃え立つのだ。けれども、小説は、全く一面の努力頭を整え、思いをただし、運命の神のように我を失わず、描く人間の運命を支配しなけれ・・・ 宮本百合子 「初夏(一九二二年)」
・・・――私の胸がすがすがしく、白衣の囲りにかがよう陽炎のような光が一層晴やかなのも訳のないことではなかった。それから? 私は、人間の長い、真面目な、忍耐強い生活の話になると、此処に眠っている神々に負けない貪慾なききたがりやになるのです。使者・・・ 宮本百合子 「対話」
・・・「こんなにたくさんの葉を皆間違いなく、その枝々につけ、こうやってただこぼれた麦粒から、こんなに生き生きとした、美しい立派な芽を出させるものは何だろう、彼女は、白いなよやかな根元から、短かく立つ陽炎を眺めながら考えている」 考えの進歩・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ 短かい陽炎がチロチロともえる香りのいい地面。 禰宜様宮田は、ジイッと瞳をせばめて、大きい果しない天地を想う。 そして、想えば想うほど、眺めれば眺めるほど、彼はあの碧い空の奥、この勢のいい地面の底に何か在りそうでたまらない心持に・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
・・・その傍に、小さな小屋を立ててすんで居る鯉屋の裏には、鯉にやるさなぎのほしたのから、短かい陽炎が立ち、その周囲の湿地には、粗い苔が生えて、群れた蠅の子が、目にもとまらない程小さい体で、敏捷に彼方此方とび廻って居る。 △静かに、かなり念・・・ 宮本百合子 「「禰宜様宮田」創作メモ」
・・・ 四 野末の陽炎の中から、種蓮華を叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。「持とう。」「何アに。」「重たかろうが。」 若者は黙っていかにも軽そうな容子・・・ 横光利一 「蠅」
出典:青空文庫