・・・お栄はまだ夢でも見ているような、ぼんやりした心もちでいましたが、祖母はすぐにその手を引いて、うす暗い雪洞に人気のない廊下を照らしながら、昼でも滅多にはいった事のない土蔵へお栄をつれて行きました。 土蔵の奥には昔から、火伏せの稲荷が祀って・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・で寝ました処、枕許が賑かだから、船底を傾けて見ますとね、枕許を走ってる、長い黒髪の、白いきものが、球に乗って、……くるりと廻ったり、うしろへ反ったり、前へ辷ったり、あら、大きな蝶が、いくつも、いくつも雪洞の火を啣えて踊る、ちらちら紅い袴が、・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・社殿の雪洞も早や影の届かぬ、暗夜の中に顕れたのが、やや屈みなりに腰を捻って、その百日紅の梢を覗いた、霧に朦朧と火が映って、ほんのりと薄紅の射したのは、そこに焚落した篝火の残余である。 この明で、白い襟、烏帽子の紐の縹色なのがほのかに見え・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
・・・一つは曲水の群青に桃の盃、絵雪洞、桃のような灯を点す。……ちょっと風情に舞扇。 白酒入れたは、ぎやまんに、柳さくらの透模様。さて、お肴には何よけん、あわび、さだえか、かせよけん、と栄螺蛤が唄になり、皿の縁に浮いて出る。白魚よし、小鯛よし・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・ 可いかい、それを文庫へ了って、さあ寝支度も出来た、行燈の灯を雪洞に移して、こいつを持つとすッと立って、絹の鼻緒の嵌った層ね草履をばたばた、引摺って、派手な女だから、まあ長襦袢なんかちらちちとしたろうよ。 長廊下を伝って便所へ行くも・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・細帯しどけなき寝衣姿の女が、懐紙を口に銜て、例の艶かしい立膝ながらに手水鉢の柄杓から水を汲んで手先を洗っていると、その傍に置いた寝屋の雪洞の光は、この流派の常として極端に陰影の度を誇張した区劃の中に夜の小雨のいと蕭条に海棠の花弁を散す小庭の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・その時母の持っていた雪洞の灯が暗い闇に細長く射して、生垣の手前にある古い檜を照らした。 父はそれきり帰って来なかった。母は毎日三つになる子供に「御父様は」と聞いている。子供は何とも云わなかった。しばらくしてから「あっち」と答えるようにな・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
・・・大きな張りぬきの桜の樹が道に飾りつけてあり、雪洞の灯が、爛漫とした花を本もののように下から照している。 一台の俥が勢よく表通りからその横丁へ曲って来た。幌をはずして若い女が斜めに乗り、白い小さい顔が幸福そうに笑っている。見ると、俥の後に・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・ 読んでしまった大野は、竹が机の傍へ出して置いた雪洞に火を附けて、それを持って、ランプを吹き消して起った。これから独寝の冷たい床に這入ってどんな夢を見ることやら。 森鴎外 「独身」
出典:青空文庫