・・・雲母のような波を刻んでいる東京湾、いろいろな旗を翻した蒸汽船、往来を歩いて行く西洋の男女の姿、それから洋館の空に枝をのばしている、広重めいた松の立木――そこには取材と手法とに共通した、一種の和洋折衷が、明治初期の芸術に特有な、美しい調和を示・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・その前には、背の高い松岡と背の低い菊池とが、袂を風に翻しながら、並んで立っている。そうして、これも帽子をふっている。時々、久米が、大きな声を出して、「成瀬」と呼ぶ。ジョオンズが、口笛をふく。君の弟が、ステッキをふりまわして「兄さん万歳」を連・・・ 芥川竜之介 「出帆」
・・・…………………………………………その我上に翻したる旗は愛なりき。請ふ、なんぢら乾葡萄をもてわが力を補へ。林檎をもて我に力をつけよ。我は愛によりて疾みわづらふ。 或日の暮、ソロモンは宮殿の露台にのぼり、はるかに西の・・・ 芥川竜之介 「三つのなぜ」
・・・ と黄八丈が骨牌を捲ると、黒縮緬の坊さんが、紅い裏を翻然と翻して、「餓鬼め。」 と投げた。「うふ、うふ、うふ。」と平四郎の忍び笑が、歯茎を洩れて声に出る。「うふふ、うふふ、うふふふふふ。」「何じゃい。」と片手に猪口を・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・近い干潟の仄白い砂の上に、黒豆を零したようなのは、烏の群が下りているのであろうか。女の人の教える方を見れば、青松葉をしたたか背負った頬冠りの男が、とことこと畦道を通る。間もなくこちらを背にして、道について斜に折れると思うと、その男はもはや、・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
煙突男 ある紡績会社の労働争議に、若い肺病の男が工場の大煙突の頂上に登って赤旗を翻し演説をしたのみならず、頂上に百何十時間居すわってなんと言ってもおりなかった。だんだん見物人が多くなって、わざわざ遠方から汽・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・この橋の上に杖を停めて見ると、亜鉛葺の汚い二階建の人家が、両岸から濁水をさしばさみ、その窓々から襤褸きれを翻しながら幾町となく立ちつづいている。その間に勾配の急な木造の小橋がいくつとなくかかっている光景は、昭和の今日に至っても、明治のむかし・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・クララは吾を透す大いなる眼を翻して第四はと問う。「第四の時期を Druerie と呼ぶ。武夫が君の前に額付いて渝らじと誓う如く男、女の膝下に跪ずき手を合せて女の手の間に置く。女かたの如く愛の式を返して男に接吻する」クララ遠き代の人に語る如き・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・と、吉里はうつむき、握ッていた西宮の手へはらはらと涙を零した。 平田は額に手を当てて横を向いた。西宮と小万は顔を見合わせて覚えず溜息を吐いた。「ああ、つまらないつまらない」と、吉里は手酌で湯呑みへだくだくと注ぐ。「お止しと言うの・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・その大規模な歴史の廃墟のかたわらに、人民の旗を翻し、さわやかに金槌をひびかせ、全民衆の建設が進行しつつあるとはいいきれない状態にある。なぜなら、旧体制の残る力は、これを最後の機会として、これまで民衆の精神にほどこしていた目隠しの布が落ちきら・・・ 宮本百合子 「歌声よ、おこれ」
出典:青空文庫