・・・煙は、早春の午後をわずかにくゆらせながら、明い静かさの中に、うす青く消えてしまう。「こう云うのどかな日を送る事があろうとは、お互に思いがけなかった事ですからな。」「さようでございます。手前も二度と、春に逢おうなどとは、夢にも存じませ・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・いつもならば頭を枕につけるが早いかすぐ鼾になる人が、いつまでも静かにしていて、しげしげと厠に立った。その晩は彼にも寝つかれない晩だった。そして父が眠るまでは自分も眠るまいと心に定めていた。 二時を過ぎて三時に近いと思われるころ、父の寝床・・・ 有島武郎 「親子」
・・・春と共に静かであった別荘に賑が来た。別荘の持主は都会から引越して来た。その人々は大人も子供も大人になり掛かった子供も、皆空気と温度と光線とに酔って居る人達で、叫んだり歌を謡ったり笑ったりして居る。 その中でこの犬と初めて近づきになったの・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・札幌の人はあたりの大陸的な風物の静けさに圧せられて、やはり静かにゆったりと歩く。小樽の人はそうでない、路上の落し物を拾うよりは、モット大きい物を拾おうとする。あたりの風物に圧せらるるには、あまりに反撥心の強い活動力をもっている。されば小樽の・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・固より聞こうとしたほどでもなしに、何となく夕暮の静かな水の音が身に染みる。 岩端や、ここにも一人、と、納涼台に掛けたように、其処に居て、さして来る汐を視めて少時経った。 下 水の面とすれすれに、むらむらと動く・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・ 七日と思うてもとても七日はいられず三日で家に帰った。人の家のできごとが、ほとんどよそごとでないように心を刺激する。僕はよほど精神が疲れてるらしい。 静かに過ぎてきたことを考えると、君もいうようにもとの農業に返りたい気がしてならぬ。・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・さッと言っては押し寄せ、すッと静かに引きさがる浪の音が遠く聴えた。それに耳を傾けると、そのさッと言ってしばらく聴えなくなる間に、僕は何だかたましいを奪われて行くような気がした。それがそのまま吉弥の胸ではないかと思った。 こんなくだらない・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・沼南の傍若無人の高笑いや夫人のヒッヒッと擽ぐられるような笑いが余り耳触りになるので、「百姓、静かにしろ」と罵声を浴びせ掛けられた。 数年前物故した細川風谷の親父の統計院幹事の細川広世が死んだ時、九段の坂上で偶然その葬列に邂逅わした。その・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・を出して世界の彫刻術に一新紀元を劃し、アンデルセンを出して近世お伽話の元祖たらしめ、キェルケゴールを出して無教会主義のキリスト教を世界に唱えしめしデンマークは、実に柔和なる牝牛の産をもって立つ小にして静かなる国であります。 しかるに今を・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・これではいけないと思って、ふたたび静かなところに出て耳を澄ましますと、またはっきりと、よい音が聞こえてきましたから、今度は、その音のする方へずんずん歩いていきました。いつしか日はまったく暮れてしまって、空には月が出ました。 さよ子は、か・・・ 小川未明 「青い時計台」
出典:青空文庫