・・・木賃宿の昼は静かで、階下では上さんの声もしない。「ああ浪の音か。」としばらくしてから顔を挙げた。「俺あまた風の音かと思った。これから何だね、ゴーッて足まで掠ってきそうな奴が吹くんだね。するとじきまた、白いのがチラチラ降るようになるんだ。・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ぐっと肉の中まで入れて液を押すと、間もなく薬が効いて来たのか、一代はけろりと静かになり、死んだように眠ってしまったが、耳を澄ませるとかすかな鼾はあった。 それから一週間たったあの夕方、治療に使う枇杷の葉を看護婦と二人で切って籠に入れてい・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・で「斯んな広いお邸宅の静かな室で、午睡でもしていたいものだ」と彼はだら/\流れ出る胸の汗を拭き/\、斯んなことを思いながら、息を切らして歩いて行った。左り側に彼が曾て雑誌の訪問記者として二三度お邪魔したことのある、実業家で、金持で、代議士の・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・白いシーツのように見えていたのがそれで、静かに立ち騰っている煙は男がベッドで燻らしている葉巻の煙なんです。その男はそのときどんなことを思ったかというと、これはいかにも古都ウィーンだ、そしていま自分は長い旅の末にやっとその古い都へやって来たの・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・ 荻の湖の波はいと静かなり。嵐の誘う木葉舟の、島隠れ行く影もほの見ゆ。折しも松の風を払って、妙なる琴の音は二階の一間に起りぬ。新たに来たる離座敷の客は耳を傾けつ。 糸につれて唄い出す声は、岩間に咽ぶ水を抑えて、巧みに流す生田の一節、・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・をもって一つ新調をいたすはずに候 一輛のうば車で小児も喜び老人もまた小児のごとく喜びたもうかと思えば、福はすでにわが家の門内に巣食いおり候、この上過分の福はいらぬ事に候 今夜は雨降りてまことに静かなる晩に候、祖父様と貞夫はすでに夢も・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・そして倫理学はその実践への機を含んでしかも、直接に発動せず、静かに、謙遜に、しかも勇猛に徹底して、その思想の統一をとげ、不落の根拠を築きあげようと企図するものであり、そこには抑制せられたる実行意志が黙せる雷の如くに被覆されているのである。・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・ 老人は、机のはしに、丸い爪を持った指の太い手をついて、急に座ると腰掛が毀れるかのように、腕に力を入れて、恐る/\静かに坐った。 朝鮮語の話は、傍できいていると、癇高く、符号でも叫んでいるようだった。滑稽に聞える音調を、老人は真面目・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 細君が静かに酌をしようとしたとき、主人の手はやや顫えて徳利の口へカチンと当ったが、いかなる機会か、猪口は主人の手をスルリと脱けて縁に落ちた。はっと思うたが及ばない、見れば猪口は一つ跳って下の靴脱の石の上に打付って、大片は三ツ四ツ小片の・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・ 警察から来ると、此処は何んと静かなところだろう。長い廊下の両側には、錠の下りた幾十という独房がズラリと並んでいた。俺はその前を通ったとき、フトその一つの独房の中から低いしわぶきの声を耳にした。俺はその時、突然肩をつかまれたように、・・・ 小林多喜二 「独房」
出典:青空文庫