・・・お覚えのめでたさ、その御機嫌の段いうまでもない――帰途に、身が領分に口寄の巫女があると聞く、いまだ試みた事がない。それへ案内をせよ。太守は人麿の声を聞こうとしたのである。 しのびで、裏町の軒へ寄ると、破屋を包む霧寒く、松韻颯々として・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・ 或殿が領分巡回の途中、菊の咲いた百姓家に床几を据えると、背戸畑の梅の枝に、大な瓢箪が釣してある。梅見と言う時節でない。「これよ、……あの、瓢箪は何に致すのじゃな。」 その農家の親仁が、「へいへい、山雀の宿にござります。」・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・椿岳には小さいながらも椿岳独自の領分があって、この領分は応挙や探幽のような巨匠がかつて一度も足を踏入れた事のない処女地であった。縦令この地域は狭隘であり磽であっても厳として独立した一つの王国であった。椿岳は実にこの椿岳国という新らしい王国の・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・沖へ出てゆく漁船がその影の領分のなかから、日向のなかへ出て行くのをじっと待っているのも楽しみなものだ。オレンジの混った弱い日光がさっと船を漁師を染める。見ている自分もほーっと染まる。「そんな病弱な、サナトリウム臭い風景なんて、俺は大・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・の屑を盆の上で捜すように、影を揺ってごらんなさい。そしてそれをじーっと視凝めていると、そのうちに自分の姿がだんだん見えて来るのです。そうです、それは「気配」の域を越えて「見えるもの」の領分へ入って来るのです。――こうK君は申しました。そして・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・亀井戸の金糸堀のあたりから木下川辺へかけて、水田と立木と茅屋とが趣をなしているぐあいは武蔵野の一領分である。ことに富士でわかる。富士を高く見せてあだかも我々が逗子の「あぶずり」で眺むるように見せるのはこの辺にかぎる。また筑波でわかる。筑波の・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・『こんな晩は君の領分だねエ。』 秋山の声は大津の耳に入らないらしい。返事もしないでいる。風雨の音を聞いているのか、原稿を見ているのか、はた遠く百里のかなたの人を憶っているのか、秋山は心のうちで、大津の今の顔、今の目元はわが領分だなと・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ベンガール地方の川としては小さいその村の川は、あまり立派でもない家の娘のように、狭い自分の領分を大事に守って居りました。そのいそがしい水の流れは、決して堤から溢れることがありません。けれども、川沿いの村に住んでいる家々の一人のように、自分の・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・こうして新しい領分が開けたわけですから、その開けた直後は高まるというよりも寧ろ広まる時代、拡張の時代です。それが十八世紀の数学であります。十九世紀に移るあたりに、矢張りかかる階段があります。すなわち、この時も急激に変った時代です。一人の代表・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・これに反して、同じ北斎が自分の得意の領分へはいると同じぎざぎざした線がそこではおのずからな諧調を奏してトレモロの響きをきくような感じを与えている。たとえば富岳三十六景の三島を見ても、なぜ富士の輪郭があのように鋸歯状になっていなければならない・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
出典:青空文庫