・・・侍はすぐに編笠をかぶったが、ちらりと見た顔貌は瀬沼兵衛に紛れなかった。左近は一瞬間ためらった。ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、行く方・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・その中に、老人も紙銭の中から出て来て、李と一しょに、入口の石段の上に腰を下したから、今では顔貌も、はっきり見える。形容の枯槁している事は、さっき見た時の比ではない。李はそれでも、いい話相手を見つけたつもりで、嚢や笥を石段の上に置いたまま、対・・・ 芥川竜之介 「仙人」
・・・そのうちに彼は晴ればれとした往来へ出ても、自分に萎びた古手拭のような匂いが沁みているような気がしてならなくなった。顔貌にもなんだかいやな線があらわれて来て、誰の目にも彼の陥っている地獄が感づかれそうな不安が絶えずつきまとった。そして女の諦め・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・うと思っていた自分が、思わず知らず最後まで追いつめられて、急に慌ててカッとなったのに自分ながら半分は可笑しさを感じないではいられなかったが、まだ日の光の新しい午前の往来で、自分がいかにも病人らしい悪い顔貌をして歩いているということを思い知ら・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・我等の同胞の顔貌の中にはまたあらゆる人種の定型がそれぞれに標本的に洩れなく代表されているようである。 日本人が真に日本の土の中から生れ、日本の言語が全く独立に発生したと考えるのは、孑ぼうふらが水から発生すると考えるよりも一層非科学的であ・・・ 寺田寅彦 「短歌の詩形」
・・・これとは反対に、顔貌には疵があっても、才人だと、交際しているうちに、その醜さが忘れられる。また年を取るにしたがって、才気が眉目をさえ美しくする。仲平なぞもただ一つの黒い瞳をきらつかせて物を言う顔を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目ば・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫