・・・そこは床屋とか洗濯屋とかパン屋とか雑貨店などのある町筋であった。中には宏大な門構えの屋敷も目についた。はるか上にある六甲つづきの山の姿が、ぼんやり曇んだ空に透けてみえた。「ここは山の手ですか」私は話題がないので、そんなことを訊いてみた。・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・人がそうすれば――他人は朝飯に粥を食う俺はパンを食う。他人は蕎麦を食う俺は雑ぞうにを食う、われわれは自分勝手に遣ろう御前は三杯食う俺は五杯食う、というようなそういう事はイミテーションではない。他人が四杯食えば俺は六杯食う。それはイミテーショ・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・ 何かの、パンだとか、魚の切身だとか、巴焼だとかの包み紙の、古新聞が、風に捲かれて、人気の薄い街を駆け抜けた。 雨が来そうであった。 私の胸の中では、毒蛇が鎌首を投げた。一歩一歩の足の痛みと、「今日からの生活の悩み」が、毒蛇をつ・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・そして隠しからパンを一切と、腸詰を一塊と、古い薬瓶に入れた葡萄酒とを取出して、晩食をしはじめた。 この時自分のいる所から余り遠くない所に、鈍い、鼾のような声がし出したので、一本腕は頭をその方角に振り向けた。「おや。なんだ。爺いさん。・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・之を喩えば日本の食物は米飯を本にし、西洋諸国はパンを本にして、然る後に副食物あるが如く、学問の大本は物理学なりと心得、先ず其大概を合点して後に銘々の好む所に従い勉む可きを勉む可し。極端を論ずれば兵学の外に女子に限りて無用の学なしと言う可き程・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・西洋の公園でも花だから誰も取らずに置くがもしパンを落して置いたらどうであろう。きっとまたたく間になくなってしまうに違いない。して見れば西洋の公徳というのも有形的であって精神的ではない…………ヤ大勢来やがった。誰かと思えばやはりきのうの連中だ・・・ 正岡子規 「墓」
・・・と言いながら盗んで来た角パンを出しました。 ホモイはちょっとたべてみたら、実にどうもうまいのです。そこで狐に、 「こんなものどの木にできるのだい」とたずねますと狐が横を向いて一つ「ヘン」と笑ってから申しました。 「台所という木で・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・という立看板に散りかかっている。パン屋や菓子屋の店さきのガラス箱にパンや菓子がないように、女は自分の帽子なしで往来を歩いていても不思議がらないような日々の感情になって来た。 女の無智やあさましさのあらわれているような風がなくなったことは・・・ 宮本百合子 「新しい美をつくる心」
・・・そしてあの小さい綺麗な女房がまたパンの皮を晩食にするかと思うと、気の毒でならなかった。ところがその心持を女房に知らせたくないので、女房をどなり附けた。「あたりめえよ。銭がありゃあ皆手めえが無駄遣いをしてしまうのだ。ずべら女めが。」 ・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・ 珍らしいパン附の食事を終ってから、梶と栖方は、中庭の広い芝生へ降りて東郷神社と小額のある祠の前の芝生へ横になった。中庭から見た水交社は七階の完備したホテルに見えた。二人の横たわっている前方の夕空にソビエットの大使館が高さを水交社と競っ・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫