出典:青空文庫
・・・ すらすらと歩を移し、露を払った篠懸や、兜巾の装は、弁慶よりも、判官に、むしろ新中納言が山伏に出立った凄味があって、且つ色白に美しい。一二の松も影を籠めて、袴は霧に乗るように、三密の声は朗らかに且つ陰々として、月清く、風白し。化鳥の調の・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・呼込んだ孫八が、九郎判官は恐れ多い。弁慶が、ちょうはん、熊坂ではなく、賽の目の口でも寄せようとしたのであろう。が、その女振を視て、口説いて、口を遁げられたやけ腹に、巫女の命とする秘密の箱を攫って我が家を遁げて帰らない。この奇略は、モスコオの・・・ 泉鏡花 「神鷺之巻」
・・・北の海なる海鳴の鐘に似て凍る時、音に聞く……安宅の関は、この辺から海上三里、弁慶がどうしたと? 石川県能美郡片山津の、直侍とは、こんなものかと、客は広袖の襟を撫でて、胡坐で納まったものであった。「だけど……お澄さんあともう十五分か、二十・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・裏を返すと弁慶が大長刀を持って威張っている。……その弁慶が、もう一つ変ると、赤い顱巻をしめた鮹になって、踊を踊るのですが、これには別に、そうした仕掛も、からくりもないようです。――(覗き覗き、済純、これは舞姫ばかりらしい。ああ、人形は名作だ・・・ 泉鏡花 「山吹」
・・・ 吉弥はこれが癪にさわったとかで、自分のうちのお客に対し、立ち聴きするなどは失礼ではないかとおこり返したそうだが、そのいじめ方が不断のように蔭弁慶的なお君と違っていたので、「あの小まッちゃくれも、もう年ごろだから、焼いてるんだ、わ」・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 第二回だか第三回だかの博覧会にも橋弁慶を出品して進歩二等賞の銅牌を受領した。この画は今何処にあるか、所有者が不明である。元来椿岳というような旋毛曲りが今なら帝展に等しい博覧会へ出品して賞牌を貰うというは少し滑稽の感があるが、これについ・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・六、七歳頃から『八犬伝』の挿絵を反覆して犬士の名ぐらいは義経・弁慶・亀井・片岡・伊勢・駿河と共に諳んじていた。富山の奥で五人の大の男を手玉に取った九歳の親兵衛の名は桃太郎や金太郎よりも熟していた。したがってホントウに通して読んだのは十二、三・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・て押え付けつつ静かに背中から腰を撫ってやると、快い気持そうに漸と落付いて、暫らくしてから一匹産落し、とうとう払暁まで掛って九匹を取上げたと、猫のお産の話を事細やかに説明して、「お産の取上爺となったのは弁慶と僕だけだろう。が、卿の君よりは猫の・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・青扇は茶碗をむりやりに僕に持たせて、それから傍に脱ぎ捨ててあった弁慶格子の小粋なゆかたを坐ったままで素早く着込んだ。僕は縁側に腰をおろし、しかたなく茶をすすった。のんでみると、ほどよい苦味があって、なるほどおいしかったのである。「どうし・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・義経でも弁慶でもかまわない。私は、ただ、佐渡の人情を調べたいのである。そこへはいった。「お酒を、飲みに来たのです。」私は少し優しい声になっていた。さむらいでは無かった。 この料亭の悪口は言うまい。はいった奴が、ばかなのである。佐渡の・・・ 太宰治 「佐渡」