アイル‐クロー【Ayer Keroh】
マレーシア、マレー半島南西岸の都市マラッカ北郊の町。市街中心部の北約20キロメートルに位置する。アイルクロー湖の周囲にマラッカ動物園、蝶・爬虫類(はちゅうるい)園、タマンミニマレーシアなどがあり...
アウサンガテ‐さん【アウサンガテ山】
《Ausangate》南アメリカ、ペルー南東部にあるビルカノタ山脈の最高峰。標高6394メートル。クスコの南東約85キロメートルに位置する。インカ帝国時代の行事に由来する祭りコイヨリッティが行わ...
アオスタ【Aosta】
イタリア北西部、バッレダオスタ自治州の都市。同州の州都。アペニン山脈、モンテビアンコ(モンブラン)、モンテチェルビノ(マッターホルン)など4000メートル級の山々に囲まれたドーラバルテア川沿いの...
アギア‐ガリニ【Agia Galini/Αγία Γαλήνη】
ギリシャ南部、クレタ島の村。同島南岸に位置し、海岸保養地として知られる。海水浴客が多く訪れるほか、ヨットハーバーがある。
アギア‐マリナ【Agia Marina/Αγία Μαρίνα】
ギリシャ南部、サロニコス湾に浮かぶエギナ島の東部にある海岸保養地。約500メートルの白い砂浜が広がり、夏期には観光客が数多く訪れる。
足音
I〔歩く音〕(the sound of) footsteps; steps子供の足音the sound of children's feet大きな[重い]足音を立ててwith a heavy t...
跡
1〔何かが通ったあと〕a track;〔獲物などの残した跡〕a trail, a track雪の上についたスキーの跡the tracks [traces] of skis on snow車が通っ...
あとをたつ【跡を絶つ】
彼の墓には今でも訪れる人が跡を絶たないA lot of people still visit his grave./There is still no end to the throng of ...
訪れ
visit《訪問》;arrival《到着》[参考]「訪れる」という動詞で用いられることが多い。
顔出し
I1〔訪れる〕実家に顔出ししたI paid my parents a (brief) visit.2〔挨拶に行く〕まだ新しい社長に顔出しをしていないI have not yet 「paid my...
たずねる【訪ねる】
[共通する意味] ★ある目的をもって、人の家やある場所へ出かける。[英] to visit[使い方]〔訪ねる〕(ナ下一)▽母校を訪ねる▽仏教発祥の地を訪ねる旅▽友人を会社に訪ねる〔訪れる〕(ラ下...
とう【訪う】
[共通する意味] ★ある目的をもって、人の家やある場所へ出かける。[英] to visit[使い方]〔訪ねる〕(ナ下一)▽母校を訪ねる▽仏教発祥の地を訪ねる旅▽友人を会社に訪ねる〔訪れる〕(ラ下...
おとずれる【訪れる】
[共通する意味] ★ある目的をもって、人の家やある場所へ出かける。[英] to visit[使い方]〔訪ねる〕(ナ下一)▽母校を訪ねる▽仏教発祥の地を訪ねる旅▽友人を会社に訪ねる〔訪れる〕(ラ下...
ほうもん【訪問】
[共通する意味] ★ある目的をもって、人の家やある場所へ出かける。[英] to visit[使い方]〔訪ねる〕(ナ下一)▽母校を訪ねる▽仏教発祥の地を訪ねる旅▽友人を会社に訪ねる〔訪れる〕(ラ下...
おうが【枉駕】
[共通する意味] ★相手が訪ねて来ることを敬っていう語。[英] your visit[使い方]〔光臨〕▽御光臨の栄を賜る〔光来〕▽御光来を仰ぐ〔来駕〕スル▽御来駕を乞う〔枉駕〕スル▽枉駕の栄に浴...
きばほうぎゅう【帰馬放牛】
戦争が終わって平和になるたとえ。また、再び戦争をしないたとえ。戦争で使った馬や牛を野に帰し放つ意から。▽「馬うまを帰かえし牛うしを放はなつ」と訓読する。
さんこのれい【三顧之礼】
真心から礼儀を尽くして、すぐれた人材を招くこと。また、目上の人が、ある人物を信任して手厚く迎えること。▽「顧」は訪ねる、訪れること。
せきぜんのよけい【積善余慶】
善をなせば、見かえりとしてよい事が必ずあるということ。善行を積んだ家には、子孫の代にまで及ぶ幸福が必ず訪れるという意味。
せんざいいちぐう【千載一遇】
滅多に訪れそうもないよい機会。二度と来ないかもしれないほど恵まれた状態。▽「載」は「年」に同じ。「一遇」は一度出会う。「遇」は思いがけず出くわす。千年に一度偶然訪れるくらいの機会という意味。
ぜんなんぜんにょ【善男善女】
仏道の教えに帰依した人々。後に広く仏教を信仰する人々のことを指す。また、寺院に参詣したり霊場を巡礼したりする人を指す語。▽仏教語。良家の男子・女子という意味の梵語ぼんごの意訳。彼らは前世あるいは今世に善行を積んだので、在家の身で仏法を聞くことができたとされる。