・・・君はきっと、銀座か新宿のデパアトの屋上庭園の木柵によりかかり、頬杖ついて、巷の百万の屋根屋根をぼんやり見おろしたことがあるにちがいない。巷の百万の屋根屋根は、皆々、同じ大きさで同じ形で同じ色あいで、ひしめき合いながらかぶさりかさなり、はては・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・ 逗子養神亭から見た向う岸の低い木柵に凭れている若い女の後姿のスケッチがある。鍔広の藁帽を阿弥陀に冠ってあちら向いて左の手で欄の横木を押さえている。矢絣らしい着物に扱帯を巻いた端を後ろに垂らしている、その帯だけを赤鉛筆で塗ってある。そう・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・それで勘定場近くの便所の口へ出て低い木柵越しに外を見ると、そこに一団、かしこに一団という風に人間が寄集まって茫然として空を眺めている。この便所口から柵を越えて逃げ出した人々らしい。空はもう半ば晴れていたが千切れ千切れの綿雲が嵐の時のように飛・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・油絵の風景画などでも、破れた木柵、果樹などの前景に雑草の乱れたような題材は今でもいちばんに心を引かれる。 東京に家を持ってからの事である。ある日巡査がやって来て、表の塀の下にひどく草がはえているから抜くようにと注意して行った。見るとなる・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
・・・で、彼はとっさの間に、グラウンドに沿うて木柵によって仕切られている街道まで腹這いになって進んだ。 街道に出ると、彼は木柵を盾にして、グラウンドの灰色の景色をながめた。その時にはもう深谷の姿は見えなかった。彼は茫然として立ちつくした。なぜ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 自動車の通る道路をはさんで両側に低い木柵を結った二階建の住宅が、同じ形で四五十軒並んでいる。小鳥の籠ゼラニュームの鉢などが出ている窓もある。そういう小住宅が五側ばかりで、清潔な町をかたちづくっているのであった。 一つの扉の前で自動・・・ 宮本百合子 「石油の都バクーへ」
・・・とある、壊れた木柵の陰から男が一人出て来た。 彼の皮膚は濃い茶色だ。鍔広のメキシコ帽をかぶり…… 空は水蒸気の多い水浅黄だ。植物は互に縺れこんぐらかって悩ましく鬱葱としている。彼の飾帯はその裡で真紅であった。強烈な色彩がいつまでも、・・・ 宮本百合子 「翔び去る印象」
出典:青空文庫