・・・それあおまえも、品質が好いからって二合ばかりずつのお酒をその度々に釜川から一里もあるこの釜和原まで買いに遣すような酷い叔母様に使われて、そうして釣竿で打たれるなんて目に逢うのだから、辛いことも辛いだろうし口惜しいことも口惜しいだろうが、先日・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・ それから笑いながら、「こんな非道い目に会うということが分ったら、お母さんはあいつらにお茶一杯のませてやるなんて間違いだということが分かるでしょう!」――それは笑いながらいったのですが、然しこんなに私の胸にピンと来たことがありませんでし・・・ 小林多喜二 「疵」
・・・歳暮裾曳く弘め、用度をここに仰ぎたてまつれば上げ下げならぬ大吉が二挺三味線つれてその節優遇の意を昭らかにせられたり おしゅんは伝兵衛おさんは茂兵衛小春は俊雄と相場が極まれば望みのごとく浮名は広まり逢うだけが命の四畳半に差向いの置炬燵トン・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・名もあるべき者が三筋に宝結びの荒き竪縞の温袍を纏い幅員わずか二万四千七百九十四方里の孤島に生れて論が合わぬの議が合わぬのと江戸の伯母御を京で尋ねたでもあるまいものが、あわぬ詮索に日を消すより極楽は瞼の合うた一時とその能とするところは呑むなり・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・町で行逢う人達はおげんの方を振返り振返りしては、いずれも首を傾げて行った。それを知る度におげんはある哀しい快感をさえ味わった。漠然とした不安の念が、憂鬱な想像に混って、これから養生園の方へ向おうとするおげんの身を襲うように起って来た。町に遊・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・こう思ったから自分はその夕方、小母さんや初やなどに会うのが気になった。二人が何とか藤さんの身の上を語って、千鳥の話を壊しはしまいかと気がもめた。 小母さんは帰ってくるやいなや、「あなたお腹がすいたでしょう。私気になって急いで帰ったの・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・佐吉さんの兄さんは沼津で大きい造酒屋を営み、佐吉さんは其の家の末っ子で、私とふとした事から知合いになり、私も同様に末弟であるし、また同様に早くから父に死なれている身の上なので、佐吉さんとは、何かと話が合うのでした。佐吉さんの兄さんとは私も逢・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・ 銀座は、たいへんな人出であった。逢う人、逢う人、みんなにこにこ笑っている。「よかった。日本は、もう、これでいいのだよ。よかった。」と兄は、ほとんど一歩毎に呟いて、ひとり首肯き、先刻の怒りは、残りなく失念してしまっている様子であった・・・ 太宰治 「一燈」
・・・どこへでも二人が並んで顔を出すと、人が皆囁き合う。男はしっかりして危げがなく、気力が溢れて人を凌いで行く。女はすらりとして、内々少し太り掛けていると云う風の体附きである。まるで娘のように見える。手なんぞは極小くて、どうしてあれで大金を払い出・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・それに、その女たちにも会う機会がない。遺憾だとは思ったが、しかたがないので、そのまま筆をとることにした。 六月の二日か三日から稿を起こした。梅雨の降りしきる窓ぎわでは、ことに気が落ちついて、筆が静かな作の気分と相一致するのを感じた。その・・・ 田山花袋 「『田舎教師』について」
出典:青空文庫