・・・釣れるときにはこんなにあっけなくかかるのに、釣れないとなると、どうにもしかたがないものである。私が成功したのは後にも先にもこれが一回きりだ。 釣りあげられた河豚は腹を立てて、まん丸く、フットボールのようにふくらんだ。これを船底にたたきつ・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・髪はさまで櫛の歯も見えぬが、房々と大波を打ッて艶があって真黒であるから、雪にも紛う顔の色が一層引ッ立ッて見える。細面ながら力身をもち、鼻がすッきりと高く、きッと締ッた口尻の愛嬌は靨かとも見紛われる。とかく柔弱たがる金縁の眼鏡も厭味に見えず、・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・実は小さい時おれに盗みを教え込もうとした奴があったのだ。だが、どうも不気味だよ。そうは云うものの、おめえ何か旨い為事があるのなら、おれだって一口乗らねえにも限らねえ。やさしい為事だなあ。ちょいとしゃがめば、ちょいと手に攫めると云う為事で、あ・・・ 著:ブウテフレデリック 訳:森鴎外 「橋の下」
・・・位階勲章の精神は、けだしここにあって存するものならん。 人間社会の事は千緒万端にして、ただ政治のみをもって組織すべきものに非ず。人の働もまた、千緒万端に分別してこれに応ぜざるべからず。すなわち人事の分業分任なり。すでにこれを分てこれに任・・・ 福沢諭吉 「学問の独立」
・・・物の生存の上よりいわば、意あっての形形あっての意なれば、孰を重とし孰を軽ともしがたからん。されど其持前の上よりいわば意こそ大切なれ。意は内に在ればこそ外に形われもするなれば、形なくとも尚在りなん。されど形は意なくして片時も存すべきものにあら・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・この銀盤は偶然だが、実際ある寺院で使っていたロオマ時代の器具であった。卓の上には物を書いた紙が一ぱいに散らばっていて、ほとんど空地が無い。それから給仕は来た時と同じように静かに謹んで跡へ戻って、書斎の戸を締めた。開いた本を閉じたほどの音もさ・・・ 著:プレヴォーマルセル 訳:森鴎外 「田舎」
・・・どうかした拍子でふいと自然の好い賜に触れる事があってもはっきり覚めている己の目はその朧気な幸を明るみへ引出して、余りはっきりした名を付けてしまったのだ。そして種々な余所の物事とそれを比べて見る。そうすると信用というものもなくなり、幸福の影が・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
○長い長い話をつづめていうと、昔天竺に閼伽衛奴国という国があって、そこの王を和奴和奴王というた、この王もこの国の民も非常に犬を愛する風であったがその国に一人の男があって王の愛犬を殺すという騒ぎが起った、その罪でもってこの者は死刑に処せら・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ 霧の粒はだんだん小さく小さくなって、いまはもう、うすい乳いろのけむりに変わり、草や木の水を吸いあげる音は、あっちにもこっちにも忙しく聞こえだしました。さすがの歩哨もとうとうねむさにふらっとします。 二疋の蟻の子供らが、手をひいて、・・・ 宮沢賢治 「ありときのこ」
・・・からのち、益々解放運動とその文学運動の中心課題にてい身してゆくにつれ、論策も主としてプロレタリア文化・文学運動の基本的方向の提示とその科学的な方法論にうつって行ったことは現実と実感の必然であった。 短い月日の間に、はげしく推移する情勢に・・・ 宮本百合子 「巖の花」
出典:青空文庫