・・・と、やさしく、あどけない声して言った。「小松山さん、山の神さん、 どうぞ、茸を頂戴な。 下さいな。――」 真の心は、そのままに唄である。 私もつり込まれて、低声で唄った。「ああ、ありました。」「おお、あっ・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ そこは四ツ辻だったが、角の家に一軒門燈がついていて、その灯りが雨を透して、かすかに流れていたから、娘の顔はほのかに見えた。 あどけない可愛い顔立ちは、十六、七の少女のようだった。しかし、むっちり肉のついた肩や、盛り上った胸のふくら・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・醤油屋の坊っちゃんは、あどけない声で奥さんにこんなことを云いながら、村へ通じている県道を一番先に歩いた。それにつづいて、下車客はそれぞれ自分の家へ帰りかけた。「谷元は、皆な出来た云いよった。……」こういう坊っちゃんの声も聞えた。谷元とい・・・ 黒島伝治 「電報」
・・・ 彼女は、あどけない顔をしていた。「話だよ。お前をかっさらって、又、夜ぬけをしようってんだ。」 ほかの者の手前彼は、冗談化した。「いやだよ。つまんない。」 スボ/\していた。 しかし、昼食の後、タエは、女達の休んでい・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・マッチの火で、ちらと青年の顔をのぞくと、青年は、まるで子供のような、あどけない表情で、ぶうっと不満そうにふくれて立っているのである。ふびんに思った。からかうのも、もうこの辺でよそうと思った。「君は、いくつ?」「二十三です。」ふるさと・・・ 太宰治 「座興に非ず」
・・・財産は無くとも、仕事が残っておれば、なんとかなるんじゃないかしら、などと甘い、あどけない空想をしているんだから之も落第。十八、苦しい時の神だのみさ。もっとも一生くるしいかも知れないのだから、一生、神仏を忘れないとしても、それだって神仏を・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・手に見破られるのが羞しいので、空の蒼さ、紅葉のはかなさ、美しさ、空気の清浄、社会の混沌、正直者は馬鹿を見る、等という事を、すべて上の空で語り合い、お弁当はわけ合って食べ、詩以外には何も念頭に無いというあどけない表情を努めて、晩秋の寒さをこら・・・ 太宰治 「犯人」
・・・ちょっとすれちがいに通って女に顔を見られた時にさえ満面に紅を潮して一人情に堪なかったほどのあどけない色気も、一年一年と薄らいで遂に消え去ってしもうた。昔は一箇の美人が枕頭に座して飯の給仕をしてくれても嬉しいだろうと思うたその美人が、今我が枕・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
この雑誌の読者である方々くらいの年頃の少女の生活は、先頃まではあどけない少女時代の生活という風に表現されていたと思います。そしてそれは、そう言われるにふさわしい、気苦労のない、日常生活の進行は大人にまかして、自分達は愉快に・・・ 宮本百合子 「美しく豊な生活へ」
・・・我妹、雪白の祭壇の上に潔く安置された柩の裡にあどけないすべての微笑も、涙も、喜びも、悲しみも皆納められたのであろうか。永久に? 返る事なく? 只一度の微笑みなり一滴の涙なりを只一度とのこされた姉は希うのである。 思い深く沈んだ夜は私・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
出典:青空文庫