・・・ いな、人間の死は、科学の理論を待つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、なんびともあらそうべからざる事実ではないか。死のきたるのは、一個の例外もゆるさない。死に面しては、貴賎・貧富も、善悪・邪正も、知恵・賢不肖も、平等一・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・しがりさてこの土地の奇麗のと言えば、あるある島田には間があれど小春は尤物介添えは大吉婆呼びにやれと命ずるをまだ来ぬ先から俊雄は卒業証書授与式以来の胸躍らせもしも伽羅の香の間から扇を挙げて麾かるることもあらば返すに駒なきわれは何と答えんかと予・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・情があらば助力して呉れ。頼む。斯う真実を顔にあらわして嘆願するのであった。「実は――まだ朝飯も食べませんような次第で。」 と、その男は附加して言った。 この「朝飯も食べません」が自分の心を動かした。顔をあげて拝むような目付をした・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・しかしだんだん種々の世故に遭遇するとともに、翻って考えると、その同情も、あらゆる意味で自分に近いものだけ濃厚になるのがたしかな事実である。して見るとこれもあまり大きなことは言えなくなる。同情する自分と同情される他者との矛盾が、死ぬか生きるか・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・もと支那の皇帝であられた宣統帝は、今では何の収入もない境ぐうにいられる中から、手もとにありたけの一万元を寄附された上、今後の生活費として売りはらうつもりでいられた高貴な宝石、道具二十余点を売って十五万元のお金をよこされました。 そのほか・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・なんぞ詢るの用あらん。しかるに詢る。余いずくんぞ一言なきを得んや。古人初めて陳ぶるに臨まば奇功多からざらんを欲す。その小成に安んずるをおそるるなり。今君は弱冠にして奇功多し。願わくは他日忸れて初心を忘るるなかれ。余初めて書を刊して、またいさ・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・やっぱり、お汗が多いのねえ。あら、お袖なんかで拭いちゃ、みっともないわよ。ハンケチないの? こんどの奥さん、気がきかないのね。夏の外出には、ハンケチ三枚と、扇子、あたしは、いちどだってそれを忘れたことがない。 ――神聖な家庭に、けちをつ・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ この男の姿のこの田畝道にあらわれ出したのは、今からふた月ほど前、近郊の地が開けて、新しい家作がかなたの森の角、こなたの丘の上にでき上がって、某少将の邸宅、某会社重役の邸宅などの大きな構えが、武蔵野のなごりの櫟の大並木の間からちらちらと・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・しき義僕孝助の忠やかなる読来れば我知らず或は笑い或は感じてほと/\真の事とも想われ仮作ものとは思わずかし是はた文の妙なるに因る歟然り寔に其の文の巧妙なるには因ると雖も彼の圓朝の叟の如きはもと文壇の人にあらねば操觚を学びし人とも覚えずしかるを・・・ 著:坪内逍遥 校訂:鈴木行三 「怪談牡丹灯籠」
・・・辰さんは小声で義太夫を唸りながら、あらの始末をしている。女中部屋の方では陽気な笑声がもれる。戸外の景色に引きかえて此処はいつものように平和である。 嵐の話になって婆さんは古い記憶の中から恐ろしくも凄かった嵐を語る。辰さんが板敷から相槌を・・・ 寺田寅彦 「嵐」
出典:青空文庫