・・・ここに求馬が居合せないのは、返えす返えすも残念である。が、今兵衛を打たなければ、またどこかへ立ち退いてしまう。しかも海路を立ち退くとあれば、行く方をつき止める事も出来ないのに違いない。これは自分一人でも、名乗をかけて打たねばならぬ。――左近・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・で、妹に帽子を脱がせて、それを砂の上に仰向けにおいて、衣物やタオルをその中に丸めこむと私たち三人は手をつなぎ合せて水の中にはいってゆきました。「ひきがしどいね」 とMがいいました。本当にその通りでした。ひきとは水が沖の方に退いて行く・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ 奥さんは夫と目を見合せて同意を表するように頷いた。しかしそれは何と返事をして好いか分からないからであった。「本当に嫌でも果さなくてはならない義務なのだろう。」奥さんもこんな風に自ら慰めて見て、深い溜息を衝いた。 夫を門の戸まで・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ その蘆の根を、折れた葉が網に組み合せた、裏づたいの畦路へ入ろうと思って、やがて踏み出す、とまたきりりりりと鳴いた。「なんだろう」 虫ではない、確かに鳥らしく聞こえるが、やっぱり下の方で、どうやら橋杭にでもいるらしかった。「・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・省作の目には、太陽の光が寸一寸と歩を進めて動く意味と、ほとんど同じようにその調子に合わせて、家の人たちが働いてるように見える。省作はもうただただ愉快である。 東京の物の本など書く人たちは、田園生活とかなんとかいうて、田舎はただのんきで人・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・と手を合せておがみ夜ぎりの中に出てゆくあとで娘が云うには「一寸一寸、今の坊さんはネ、風呂敷包の中に小判を沢山皮の袋に入れたのをもって居らっしゃるのを見つけたんですよ、だから、御つれもないんだから誰も知る人もありませんから殺してあの御金をおと・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・そこで未決檻に入れられてから、女房は監獄長や、判事や、警察医や、僧侶に、繰り返して、切に頼み込んで、これまで夫としていた男に衝き合せずに置いて貰う事にした。そればかりではない。その男の面会に来ぬようにして貰った。それから色々な秘密らしい口供・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・と、年子は目を泣きはらして、手を合わせました。勇ちゃんは、ハーモニカを唇にあてて、姉さんの好きだった曲を、北風に向かって鳴らしていたのです。 小川未明 「青い星の国へ」
・・・小揚人足が賑かな節を合せて、船から米俵のような物を河岸倉へ運びこんでいる。晴れきって明るくはあるが、どこか影の薄いような秋の日に甲羅を干しながら、ぼんやり河岸縁に蹲んでいる労働者もある。私と同じようにおおかた午の糧に屈托しているのだろう。船・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・ 女はどうぞとこちらを向いて、宿の丹前の膝をかき合わせた。乾燥した窮屈な姿勢だった。座っていても、いやになるほど大柄だとわかった。男の方がずっと小柄で、ずっと若く見え、湯殿のときとちがって黒縁のロイド眼鏡を掛けているため、一層こぢんまり・・・ 織田作之助 「秋深き」
出典:青空文庫