・・・よしんばおせんは、彼女が自分で弁解したように、罪の無いものにもせよ――冷やかに放擲して置くような夫よりは、意気地は無くとも親切な若者を悦んだであろう。それを悦ばせるようにしたものは、誰か。そういうことを機会に別れようとして、彼女の去る日をの・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・これはならぬと、あわてて膝を固くして、うなだれると、意気地が無いと言って叱られる。どんなにしても、だめであった。私は、私自身を持て余した。兄の怒りは、募る一方である。 幽かに、表の街路のほうから、人のざわめきが聞えて来る。しばらくして、・・・ 太宰治 「一燈」
・・・そんなに気乗りがしないのなら、なぜ、はるばる北京からやって来たのだ、と開き直って聞き糺したかったが、私も意気地の無い男である。ぎりぎりのところまでは、気まずい衝突を避けるのである。「立派な家庭だぜ。」私には、そう言うのが精一ぱいの事であ・・・ 太宰治 「佳日」
・・・一方にはきわめて消極的な涙もろい意気地ない絶望が漲るとともに、一方には人間の生存に対する権利というような積極的な力が強く横たわった。 疼痛は波のように押し寄せては引き、引いては押し寄せる。押し寄せるたびに脣を噛み、歯をくいしばり、脚を両・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・あらゆる思想上の偉人は結局最も意気地のない人間であったという事にでもなるだろうか。 魔術師でない限り、何もない真空からたとえ一片の浅草紙でも創造する事は出来そうに思われない。しかし紙の材料をもっと精選し、もっとよくこなし、もういっそうよ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・私はすっかり弱ってしまって、丁度悪戯をしてつかまった子供のような意気地のない心持になって、主人の云うがままになって引き下がる外はなかったのである。 帰る途中で何だか少し落着かない妙な気がした。軽い負債でも背負わされたような気がしてあまり・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
・・・青木も意気地がないじゃないか。あれほど望む結婚なら、もっと何とかできそうなものだ。あれではまるでこっちの親類を背景にして、ふみ江さんをもらったようなもんだからな」「え、あの人両親の前では、何にも言えないんです」「しかし、もうそうなっ・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・あるときはこの自覚のために驕慢の念を起して、当面の務を怠ったり未来の計を忘れて、落ち付いている割に意気地がなくなる恐れはあるが、成上りものの一生懸命に奮闘する時のように、齷齪とこせつく必要なく鷹揚自若と衆人環視の裡に立って世に処する事の出来・・・ 夏目漱石 「『東洋美術図譜』」
・・・ああなると意気地のねえもんだて、息がつけねえんだからな。フー、だが、全く暑いよ」 彼は、待合室から、駅前の広場を眺めた。 陽光がやけに鋭く、砂利を焙った。その上を自動車や、電車や、人間などが、焙烙の上の黒豆のように、パチパチと転げ廻・・・ 葉山嘉樹 「乳色の靄」
・・・「また誰か持ッてッたんだよ。困ることねえ。私のをはいておいでなさいよ」と、小万が声をかけるうちに、平田が重たそうに上草履を引き摺ッて行く音が聞えた。「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬を、西宮はちょいと突・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫