・・・ここの細君は今はもう暗雲を一掃されてしまって、そこは女だ、ただもう喜びと安心とを心配の代りに得て、大風の吹いた後の心持で、主客の間の茶盆の位置をちょっと直しながら、軽く頭を下げて、「イエもう、業の上の工夫に惚げていたと解りますれば何のこ・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・魚が来てカカリへ啣え込んだのか、大芥が持って行ったのか、もとより見ぬ物の正体は分りませんが、吉はまた一つ此処で黒星がついて、しかも竿が駄目になったのを見逃しはしませんで、一層心中は暗くなりました。こういうこともない例ではありませんが、飽まで・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・殊にコンクリートの壁はそれを又一層高々と響きかえらした。 しばらく経ってから気付いたことだが、早くから来ているどの同志も、屁ばかりでなく、自分独特のくさめとせきをちアんと持っていて、それを使っていることだった。音楽的なもの、示威的なもの・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・皇令を司どれば厭でも開く鉢の梅殺生禁断の制礼がかえって漁者の惑いを募らせ曳く網のたび重なれば阿漕浦に真珠を獲て言うなお前言うまいあなたの安全器を据えつけ発火の予防も施しありしに疵もつ足は冬吉が帰りて後一層目に立ち小露が先月からのお約束と出た・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・九月を迎えるように成ってからは、一層心持の好い日が続いた。おげんは娘や婆やを相手にめずらしく楽しい時を送ったばかりでなく、時にはこの村にある旧い親戚の家なぞを訪ねて歩いた。どうやら一生の晩年の静かさがおげんの眼にも見えて来た。彼女はその静か・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・あるいは百年千年の後には、その方が一層幸福な生存状態を形づくるかも知れないが、少なくともすぐ次の将来における自己の生というものが威嚇される。単身の場合はまだよいが、同じ自己でも、妻と拡がり子と拡がった場合には、いよいよそれが心苦しくなる。つ・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・河は数千年来層一層の波を、絶えず牧場と牧場との間を穿って下流へ送っている。なんの目的で河が流れているかは知れないが、どうしても目的がありそうである。この男等の生涯も単調な、疲労勝な労働、欲しいものがあっても得られない苦、物に反抗するような感・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・物かげでは、母が高い声を出して娘を諭し、人々の前に出す迄に、スバーの涙を一層激しくしました。来た偉い人は、長い間、彼女をじいっと見た揚句、「そんなに悪くもない。」と思いました。 彼は、スバーの涙に特別な注意を払い、彼女が優しい心・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・ これで物語が、すんだのであるが、すんだ、とたんに、また、かれらは、一層すごく、退屈した。ひとつの、ささやかな興奮のあとに来る、倦怠、荒涼、やりきれない思いである。兄妹五人、一ことでも、ものを言い出せば、すぐに殴り合いでもはじまりそうな・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・先日のあの僕の手紙のことに関する誤解は一掃してほしい。そして、原稿も書き直してほしい。これはお願いだ。君はああいうことで(然非常に怒ったけれど、そういうことを一々怒っていては、僕など、一日に幾度怒っていなければならぬか、数えあげられるもので・・・ 太宰治 「虚構の春」
出典:青空文庫