・・・「すんだら一杯飲もうか」と言って娘に仕度をさせた。「まだ出るころじゃないのか?」と、弟の細君のお産のことを訊いた。「もうとっくに時が来てるんでしょうから、この間から今日か今日かと待ってるようなわけで、今晩にもどうかというわけなん・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・ そうでない、ただかれは疲れはてた。一杯の水を求めるほどの気もなくなった。 豊吉は静かに立ち上がって河の岸に下りた。そして水の潯をとぼとぼとたどって河下の方へと歩いた。 月はさえにさえている。城山は真っ黒な影を河に映している。澱・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・と岡本はウイスキーを一杯、下にも置かないで飲み干した。「僕のは岡本君の説とは恐らく正反対だろうと思うんでね、要之、理想と実際は一致しない、到底一致しない……」「ヒヤヒヤ」と井山が調子を取った。「果して一致しないとならば、理想に従・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・ 嫌悪すべき壮年期が如何に人生のがらくたを一杯引っくり返してあらわれてこようとも、せめて美しく、清らかな青春時代を持たねばならぬ。ましてその青春を学窓にあってすごし得ることは、五百人に一人しか恵まれない幸福である。それは学生諸君が自分で・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・男は無言で坐り込み、筒湯呑に湯をついで一杯飲む。夜食膳と云いならわした卑しい式の膳が出て来る。上には飯茶碗が二つ、箸箱は一つ、猪口が二ツと香のもの鉢は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描かれた一升徳利は火鉢の横に侍坐せ・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・殿「何かぐず/″\口の内で言っているな、浪々酌をしてやれ、もう一杯やれ」七「へえ、お酒なら否とは云いません」殿「其の方が久しく参らん内に私は役替を仰せ付けられて、上より黄金を二枚拝領した、何うだ床間にある、悦んでくれ」七「へ・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・まあ、一杯やれ。」 わが子の労苦をねぎらおうとする心から、思わず私は自分で徳利を持ち添えて勧めた。若者、万歳――口にこそそれを出さなかったが、青春を祝する私の心はその盃にあふれた。私は自分の年とったことも忘れて、いろいろと皆を款待顔な太・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・昨年の春、えい、幸福クラブ、除名するなら、するがよい、熊の月の輪のような赤い傷跡をつけて、そうして、一年後のきょうも尚、一杯ビイル呑んで、上気すれば、縄目が、ありあり浮んで来る、そのような死にそこないの友人のために、井伏鱒二氏、檀一雄氏、そ・・・ 太宰治 「喝采」
・・・それでも竜騎兵中尉は折々文士のいる卓に来て、余り気も附けずに話を聞いて、微笑して、コニャックをもう一杯呑んで帰ることがある。 これが銀行員チルナウエルの大事件に出逢う因縁になったのである。チルナウエルはいつか文士卓の隅に据わることを許さ・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ お茶を一杯よばれてから一緒に出かけて行った。とある町の小さな薬屋の店へ這入った。店には頭の禿げた肥った主人が居て、B君と二言三言話すと、私の方を見て、何か云ったがそれはオランダ語で私には分らなかった。 店のすぐ次の間に案内された。・・・ 寺田寅彦 「異郷」
出典:青空文庫