・・・忘却は総てのものに……永久の苦しみも喜びも、その人の人生観を一変させるほどの失恋の苦悩でも……を、やはり時が経てば、昔のそれのようにさせない。最愛の子を失うた親の悲しみも、月日が経てば忘れ得る。総ては時の裁断に待つのみだ。たゞ人間の理想も幸・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・ 嫉妬は閨房の行為に対する私の考えを一変させた。日常茶飯事の欠伸まじりに倦怠期の夫婦が行う行為と考えてみたり、娼家の一室で金銭に換算される一種の労働行為と考えてみたりしたが、なお割り切れぬものが残った。円い玉子も切りようで四角いとはいう・・・ 織田作之助 「世相」
・・・勝子」今度は義兄の番だ。「ちがいますともわらびます」「ううん」鼻ごえをして、勝子は義兄を打つ真似をした。義兄は知らん顔で「ちがいますともわらびます。あれ何やったな。勝子。一遍峻さんに聞かしたげなさい」 泣きそうに鼻をならし出・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・それはそのお婆さんがある日上がり框から座敷の長火鉢の方へあがって行きかけたまま脳溢血かなにかで死んでしまったというので非常にあっけない話であったが、吉田の母親はあのお婆さんに死なれてはあの娘も一遍に気を落としてしまっただろうとそのことばかり・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・時の力は不思議なるかな、一年余りの月日は二郎が燃ゆるごとき恋を変えて一片の憐みとなしぬ。かれが沸騰せし心の海、今は春の霞める波平らかに貴嬢はただ愛らしき、あわれなる少女富子の姿となりてこれに映れるのみ。されどかれも年若き男なり、時にはわが語・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
一 秋の初の空は一片の雲もなく晴て、佳い景色である。青年二人は日光の直射を松の大木の蔭によけて、山芝の上に寝転んで、一人は遠く相模灘を眺め、一人は読書している。場所は伊豆と相模の国境にある某温泉である。 渓流の音が遠く聞ゆる・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
・・・と磯は腹の空いた訳と二円外前借が出来なかった理由を一遍に話して了った。そして話し了ったころ漸と箸を置いた。 全体磯吉は無口の男で又た口の利きようも下手だがどうかすると啖火交りで今のように威勢の可い物の言い振をすることもある、お源にはこれ・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・それに正月は来よるし、……ひとつお前さんからもう一遍、親方に頼んでみておくれんか。」 杜氏はいや/\ながら主人のところへ行ってみた。主人の云い分は前と同じことだった。「やっぱり仕様がないわい。」杜氏は帰って来て云った。「その代り・・・ 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・しかし、明治三十六年十月八日、露国の満洲撤兵第三期となった時、戦争はもはや到底避けられないことが明かになるや、黒岩涙香は主戦論に一変した。幸徳、堺は「万朝報」を退社し、「平民社」を創立した。そして、十一月十五日「平民新聞」第一号を発行した。・・・ 黒島伝治 「明治の戦争文学」
・・・彼は古新聞紙の一片に自分の餌を包んで来たのであったから。差当って彼も少年らしい当惑の色を浮めたが、予にも好い思案はなかった。イトメは水を保つに足るものの中に入れて置かねば面白くないのである。 やっぱり小父さんが先刻話したようにした方が宜・・・ 幸田露伴 「蘆声」
出典:青空文庫