・・・鈍い、悲しげな、黒い一団をなして、男等は並木の間を歩いている。一方には音もなくどこか不思議な底の方から出て来るような河がある。一方には果もない雪の原がある。男等の一人で、足の長い、髯の褐色なのが、重くろしい靴を上げて材木をこづいた。鴉のやは・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・而して林氏の説に序を逐うて答ふるも、一法なるべけれど、堯舜禹の事蹟に關する大體論を敍し、支那古傳説を批判せば、林氏に答ふるに於いて敢へて敬意を失することなからん。こゝには便宜上後者によつて私見を述べんとするもの也。 先、堯典に見るにその・・・ 白鳥庫吉 「『尚書』の高等批評」
・・・ 同時に、一方では、あのおそろしい猛火と混乱との中で、しまいまで、おちついて機敏に手をつくし、または命をまでもなげ出して、多くの人々をすくい上げた、いろいろの人々のとうといはたらきをも忘れてはなりません。たとえば、これまで深川の貧民たち・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ と言って天の一方を見上げながらおかあさんがいのりますと、そこに蝶のような羽ばたきをさせながら、小さな雲雀がおりていました。そしてそれが歌をうたいますと、雄羊は例の灰色の土塊の中にすがたをかくしてしまいました。 そこで今度は第三の門・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 彼女を結婚させなければならないと云うことは、スバーの両親にとって、一方ならない苦労でした。近所の人達は、親の責任を果さないと云って、悪く云います。中には、世間並の交際などは出来ない者として噂する者さえありました。バニカンタは、何不自由・・・ 著:タゴールラビンドラナート 訳:宮本百合子 「唖娘スバー」
・・・けれども、いまの解析の本すべてが、不思議に、言い合せたように、平気でドイツ式一方である。伝統というものは、何か宗教心をさえ起させるらしい。数学界にも、そろそろこの宗教心がはいりこんで来ている。これは、絶対に排撃しなければならない。老博士は、・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・そうして、はなはだ拙劣な、無能きわまる一法を案出した。あわれな窮余の一策である。私は、とにかく、犬に出逢うと、満面に微笑を湛えて、いささかも害心のないことを示すことにした。夜は、その微笑が見えないかもしれないから、無邪気に童謡を口ずさみ、や・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・ 死ぬのは悲しいという念よりもこの苦痛に打ち克とうという念の方が強烈であった。一方にはきわめて消極的な涙もろい意気地ない絶望が漲るとともに、一方には人間の生存に対する権利というような積極的な力が強く横たわった。 疼痛は波のように押し・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 彼の名声が急に揚がる一方で、彼に対する迫害の火の手も高くなった。ユダヤ人種排斥という日本人にはちょっと分らない、しかし多くのドイツ人には分りやすい原理に、幾分は別の妙な動機も加わって、一団のアインシュタイン排斥同盟のようなものが出来た・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・でも既に事実上の海水浴が保健の一法として広く民間に行われていたことがこれで分るのである。 明治二十六、七年頃自分の中学時代にはそろそろ「海水浴」というものが郷里の田舎でも流行り出していたように思われる。いちばん最初のいわゆる「海水浴」に・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
出典:青空文庫